自分と向き合う
お互いに、趣味の上での付き合いと、恋愛感情による付き合いとの関係性を考えた時、どちらかを証明できなかった場合、つまり否定から入ってしまうと、その関係性を証明することは不可能だといえるのではないだろうか?
支え合う関係
有岡は、
「俺が、彼女を支えている」
と思っている。
それは、正直、押しつけのようではあるが、実際に彼女の生活を支えているのは有岡だった。
要するに、今の彼女は、
「有岡がいなければ、生活していけない」
ということになるのだ。
有岡と、彼女は同棲している。彼女は、すでに休職中で、その理由は、精神疾患にあった。
「毎週のように、病院に通院し、障害年金を貰っているのだ」
ということであった。
次第に進行していく精神疾患に、有岡だけではなく、当の本人である彼女にも、その状況が把握できていなかった。
本人が少しでも分かっていればまだしも、馴染めない状態であることから、
「お互いがすれ違ってしまう」
というのも、無理もないことであった。
有岡も、最初は彼女の病院に付き添っていたりして、先生から病状を直接聞くということもあったが、最近では、そのあたりのことを、
「おろそかにしている」
という節があった。
今は、有岡の仕事が忙しく、休みが取れなくなってしまったことが言い訳になってしまっているが、それを考慮しても、有岡の寄り添い方に、彼女が疑問に感じるというのも、無理もないことだった。
だから彼女としては、
「同一の趣味で一緒にいる」
ということにして、同棲していることの言い訳にしようとするのだった。
有岡としては、寄り添うということに、限界を感じていたのではないだろうか?
「無限に存在しているものを、限界のあるものだとして解釈し始める」
ということになると、
「そこから先は、妥協というものでしかなくなってしまう」
ということになるであろう。
小説という同一の趣味という話においては、
「お互いの関係」
を、オブラートに包んだという形にしたのだから、趣味の世界においても、有岡は、彼女との限界を模索しようとしているのではないだろうか?
そうでもしないと、恋愛関係においての限界を打ち消すことになるからだった。
それを考えてしまうと、
「少なくとも、お互いの関係は、どこかで一度切れてしまった」
ということになるだろう。
「では、一体いつ?」
ということを考えると、よくわからない。
表面上は、お互いに気を遣い合っていて、うまくいっているカップルなのであった。
それが、何が狂ったのか、
「別れに対して一直線」
ということになったようで、それが、一体誰のためのことなのかが分からなくなっているようだった。
実際に何度か、
「別れよう」
ということで、どちらからともなく話をしたが、別れられるものではなかった。
お互いに別れを切り出すのだが、それがうまくかみ合わなかったのは、
「どちらかに、しつこい執着があるからだ」
ということではないだろうか?
見た目は、彼女の方にあるように見える。
なぜなら、彼女は、
「有岡の助けがなければ、生活ができないからだ」
ということであった。
有岡としても、精神疾患を持っている女性と一緒にいるのは、
「まるで爆弾を背負っているようなものじゃないか?」
と、まわりから、そう言われている、
「確かにそうだ」
とも考えるのだが、有岡は彼女から離れることはどうしてもできなかった。
なるほど、
「同情」
などの情なのかも知れない。
とも思ったが、本当にそうなのだろうか?
人に寄りそうことは、そんなに簡単なことではない。しかも、相手は、大げさにいえば、
「自分に命を預けている」
といっても過言ではないのではないか?
と言えるであろう。
有岡という人間が、
「女性との付き合い」
ということについて、いかに考えているのかということが大きな問題となるのだった。
だが、最初こそ、彼女に対して、
「よくわからないし、俺がこんなに考えたとしても、そこに見返りがないのであれば、無理に一緒にいる必要はない」
と考えるようになったのだが、実際には、
「彼女の気持ちが少しずつ分かってくるようになってきた」
ということであった。
「私は、有岡さんと一緒にいることで、成長したいんだ」
と思っているのだ。
確かに、有岡にすがって生きているのに違いはないが、最優先順位はそこではなかった。
「お互いに高め合える仲である、私が、有岡さんを頼らなければ、先に進めない」
ということに対して、
「俺には見返りがない」
と、少しでも見返りを求めているのであれば、それが、平行線となってしまって、交わることがない状態になるのだった。
それでも、少しずつ時間とともに、有岡には、彼女の気持ちが分かるようになってきた。
というのは、彼女が慕っている感覚というのは、
「兄を慕う妹」
のような感覚だった、
それを、有岡は最初から分かっていたような気がした。
分かっていて。心地よさから、
「俺が彼女を守ってやろう」
というような気持ちになったのではなかったか。
しかし、彼女は、
「趣味の世界での、有岡を尊敬しているので、そんな有岡に近づきたいという感情が、有岡側から見て、どのように感じるのかということを思わせるのではないだろうか?」
有岡の小説に対する姿勢は、
「決して無理をしない」
という発想が、一番であった。
そして、その中において、
「無理をしない」
ということを実現させようとすると、そこにあるのは、
「規則正しい執筆活動」
であった。
もちろん、慣れてきたり、要領が分かってくると、どんどん、短時間でこなせるようになるし、そうなると、自信もついてきて、同じ時間で、よりたくさんの量をこなすことができるようになるのだ。
もっといえば、
「同一時間で、どれだけできるか?」
ということなのか、
「同一の量を、どれだけの時間でこなせるようになるか?」
ということが考え方として存在するのだった。
有岡は、後者の方だった。
あくまでも、
「ノルマは量であり、時間ではない」
ということになり、どういうことなのかというと、
「成果を形で示したい」
ということの現れになるのではないだろうか?
つまりは、
「量であれば、毎日の形がハッキリと分かる」
ということは、
「質よりも量だ」
ということを、鮮明に示したかのようではないだろうか?
それに、規則正しい執筆というと、目に見えての成果の方が、自分を納得させやすいということにもなるだろう。
その考えが、有岡の、
「趣味に対しての姿勢」
だったのだ。
彼女の方は、少し違っていた。
というのも、
「規則正しい執筆」
という意味では同じなのだが、彼女の場合は、
「同じ時間内でどれだけできるか?」
ということを、彼女の中の目標にしていたのである。
そんな彼女において、
「同じような設定であるが、基準が違っていると、何か、目的の違いのように感じられる」
という発想があったのだ。
だが、有岡としては、それは、