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自分と向き合う

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「このドラマの中の少年のような気持ちになった」
 ということで、
「ずっとこの感覚を忘れることなく大人になってきたのだ」
 と考えると、
「失恋した後に、この時のヒーローの感覚が戻ってきた。いや、くすぶっていたものを思い出した」
 という感覚になったのだということに気付くのであった。
 そんなことを思い出していると、
「別れたとはいえ、彼女には、自分のことを慕いたいと思ってくれるようになるのではないか?」
 と考えると、
「恋愛は成就してもしなくても、その感覚は、慕ってもらいたいと感じることから始まっているのだ」
 と思えてくるのだった。
 恋愛というものは、
「好きになるということだけではないのだ」
 ということを言われたことがあったが、まさにその通り、
「慕ってもらえる」
 というところまで行って、
「恋愛が成就した」
 と思えるのではないか?
 と考えるようになったのだった。
 それは、初恋というものを最後に、
「これまで恋愛というものをしたことがなかった」
 という感覚があるからで、初恋を自分の中の恋愛論だとして信じて疑わない。
 もし、疑うとすれば、思春期以降に恋愛経験があれば、言えることだが、
「自分の中では片思いすらなかった」
 ということを感じているので、
「まさに、恋愛というものを、それ以上、どう考えればいいのか?」
 ということを思い知らされるような気がするのだった。
 そういう意味で、
「別れた彼女が、いずれ、自分を正義のヒーローに押し上げてくれることになるのではないか?」
 という思いが成就することで、
「二人の付き合いが恋愛だったんだ」
 ということを、後になって感じさせることになるのだろうと思っているのであった。
 ただ、彼女の方とすれば、
「自分の趣味を共有できる相手であればいい」
 と最初は思っていたようで、有岡の前のめりな雰囲気に、戸惑っているようであった。
 確かに、趣味が同じだということと、恋愛感情とを一緒に考えるとすれば、どちらかに優先順位をつけなければいけないだろう。
 それを思うと、
「同じ趣味だといっても、どこまで共鳴できるものなのか?」
 ということになるのだろうと思う。
「小説を書く」
 ということにしても、
「ジャンルもあれば、手法にもよる。書き方も違えば、書き上げるまでのプロセスも違う」
 ということを考えれば、どこまでが、
「お互いに成長できる部分になるか?」
 ということになるのである。
 下手をすれば、
「磁石の同一極によって、反発し合う」
 という考えになってしまうというものである。
 だから、下手をすると、
「お互いに高め合うどころか、却って打ち消してしまうことになりかねないことを思えば、そこに成長はない」
 と考えると、
「恋愛感情が、お互いを打ち消している」
 と言えるのではないだろうか?
 それを考えると、
「付き合っていくこと」
 と、
「趣味で繋がる」
 ということが、平行線になってしまい、どちらかでしか交われないとすれば、
「どちらを選ぶのか?」
 ということである。
 有岡の方は、絶対に、
「恋愛だ」
 と思っている。
「恋愛というものを表に出すことで、趣味が合わないとすれば、恋愛を優先するしかない」
 というのが、有岡の考え方だ。
「趣味で繋がれる人はこれからも現れるだろうが、彼女は一人しかいない」
 という考え方であるが、彼女はそうではなく、
「あくまでも趣味で繋がろうとした人が、合う人でないとするなら、自分を高める人を探すしかない」
 と思う方だった。
 こうなると、もう、お互いに、すれ違うしかないのだ。
 すれ違いというものは、疑心暗鬼を生み出してしまう。それが猜疑心となり、そのうちに、自己嫌悪も引き出すと、
「もう、何も信用できない」
 ということになるのだ。
 人のことを嫌いになるということは、自分を嫌いになるのと同じで、すれ違いが結局、自己嫌悪に繋がると思えば、
「すれ違いは、精神においての、自殺行為」
 と言ってもいいのではないかと思うのだった。
 ただ、すれ違いを解決するすべがないわけではない。考えられることとして、
「時間が解決してくれる」
 という考えもある。
 だが、時間任せだけだと、どうしても難しいものもある。
 自殺行為をいかに解消させるかというと、すれ違いがどこから来たのかということを見つける必要がある。
 ただ、
「時間が解決してくれる」
 ということは、完全に、他力本願であるかのように感じられる。
「他力本願は、あらゆる考えられる手を尽くしてもダメな場合、最後の手段として、考えることにしよう」
 ということであろう。
 そんなことを考えていると、
「あらゆる方法」
 というものをどう考えればいいのか?
 ということになるのであろう。
「あらゆる方法」
 というものが、
「無限に存在するもの」
 と考えるか、あるいは、
「無限に限りなく近いもの」
 と考えるか?
 ということである。
「世の中の矛盾になるパラドックス」
 ということで、
「合わせ鏡」
 あるいは、
「マトリョシカ人形」
 などの例として考えられるものが、
「限りなくゼロに近い」
 というものである。
「合わせ鏡」
 というのは、
「自分の左右(前後)に鏡を置いて、そこに写っている自分が、鏡に写る自分という観点から、反対側の鏡にも映ることで、どんどん小さく、そして、果てしなく、どんどん先に繋がっていくものである」
 そして、
「マトリョシカ人形」
 というのは、
「人形が蓋になっていて、それを開けると、さらに中に人形が入っている。そして、その中に人形が入っている……」
 というそんな形になるので、これもどんどん小さくなっていき、
「合わせ鏡」
 の理屈と同じような、
「限りなくゼロに近い」
 という発想になるのであった。
 あくまでも、
「限りなく近い」
 ということであり、絶対に、ゼロにはならないということである。
 ゼロという概念は、無限という概念と同じだといえるのだろうか?
 除算において、そんなに大きな数字で割ったとしても、ゼロという概念はない。絶対数としての、マイナスの可能性はあったとしても、それがゼロになるということはないのである。
 つまり、限りなくゼロに近いものというのは、すれ違いの中において、
「交わることのない平行線」
 というものを、誤差の範囲で考えると、
「限りなくゼロに近い」
 というものが、実は無限であるという考えも成り立つのかも知れない。
 そう考えると、
「一周回って、地球は丸い」
 ということが考えられ、無限に広がっていく場所に、限界があるのであれば、最終的に、「限りなくゼロに近い世界」
 というのは、存在するのではないだろうか?
 これは、
「片方の存在を証明できれば、片方は証明された」
 ということであるが、
「片方の存在の否定が証明されたからと言って、片方を否定はできない」
 という関係性になるのである。
作品名:自分と向き合う 作家名:森本晃次