再会へのパスポート
それよりも、精神病院に入院させて、治療を優先しようと考えるだろうか?
普通はそれくらいあっても不思議ではないと思うことだろう。
しかし、昭和の頃というと、ある意味、偏見があった。
「精神病院というところは、入ったら終わり」
という感覚があり、
「自分の子供が精神的に病んでいたとしても、世間体を気にして、精神病院に入院させたりはしないだろう」
と言える。
しかし、実際にはもっと深刻であるということを知らないだけで、例えば、親に暴力をふるったり、殺されかかったりすれば、急に臆病になって、それまで言っていた言葉を一気に撤回し、
「何も言わずに、病院で隔離させる」
ということになるのだ。
要するに、自分に身の危険が迫ってくると、それまで、
「世間体が」
などと言っていたくせに、一気に臆病になり、
「自分たちからなるべく遠ざけよう」
とするに違いない。
親といえども、そうなると、
「自分たちのことしか考えていない」
ということであろう。
「もう、おかしくなってしまった子供は、自分の子供ではない」
とばかりに、一気に突き放すような気分になるのであった。
そんな時代だったからなのか、当時は、今ほど精神疾患の子供がいないような気がする。
少なくとも、一定数は、前述のようなケースもあるだろう、
「大人が体裁を気にして、子供を表に出さないようにしている:
という形である。
それでも、自然治癒したということであろうか?
それとも、子供と親とで、秘密裡のうちに、泥沼に嵌ってしまったことが、世間に知られないままに、処理されるという、何か恐ろしい力が働いているということなのかである。
そんな恐ろしい状態において、それほど問題にならなかったというのは、ひょっとすると、表に出てきていない、
「何らかの組織」
というのが暗躍をしていて、本当は今よりもひどかったのかも知れないものを、秘密裡に始末していたのかも知れない。
今の時代であれば、コンプライアンスの問題などもあるので、そんな光らせている目をかいくぐって、暗躍できるほどの今の時代ではないだろう。
そうなると、今は、ほとんど、
「オープンにすることが、一番の解決法だ」
ということになるのではないだろうか?
「昭和の頃の昔と、令和の今とでは、どっちがいいというのだろうか?」
ということを考えて、果たして簡単に答えが出るものであろうか?
そんなことを考えていると、子供の問題も難しいことに気付く。
「令和の今がいいと思っている人は、意外と、昭和を知っている人なのではないか?」
というほど、昔の体裁を気にしたり、コンプライアンスのまったくなかった時代から比べると、今の方が相当いいと思っているのかも知れない。
コンプライアンスの話になると、比較されるのが、昭和の頃の同じシチュエーションの話だった。
「本当に昭和の頃というのは、仕組みが整っていなくても、よかった時代だ」
という間違った考えを持っている人も多いのかも知れない。
昭和の頃は確かに、いろいろと、おおざっぱだったこともあった。
しかし、いろいろ、
「神話」
と呼ばれるものがあり、それとは違う考えは、基本的に打ち消された。
たとえば、
「銀行不敗神話」
バブルの時期にいわれていたのだが、
「銀行は絶対に破綻しない」
というものであった。
「破綻しかかっても、国が助けてくれる」
というものであるが、まったくもって、デマであったということが、
「バブルの崩壊」
で証明されることになるのだ。
さらに、もう一つとして、
「高速道路神話」
というのもあった。
「確か耐震構造は、鉄壁のようなことを言っていたのでは?」
というはずだったのに、阪神大震災では、見事に横に倒れていたではないか?
さらに、
「原発安全神話」
というのもあった。
福島県の原発が、東日本大震災にて、どのようなことになったか?
ということである。
ただ、震災に関しては、
「想定していた以上の災害だった」
ということになるだろう。
そういう意味では仕方がないというところもあるのだろうが、だからと言って、
「しょうがない」
ということで済ませられるのだろうか?
被災者が、必死で立ち直ろうとしているところ、さらに、次に何が起こるか分からないというのは、阪神大震災にて、耐震構造を再度見直しをしたにも関わらず、それから、数十年経っても、まったく変わっていないという、とんでもないところもあった。
やはり、
「歴史に学ばない」
というのは、
「時代を生き残っていけない」
ということになるのではないだろうか?
それを考えると、
「震災などの、災害に関しては、デリケートな部分を相当含んでいる」
と言えなくもないだろう。
そういう意味もあるが、昔から、神話として言われていたり、
「政府や企業が太鼓判を押すことに関しては、疑ってかかった方がいい」
という場合も往々にしてあるというものだ。
そんな神話の中で、確かに政府がいうのは、あてにならない場合も多い。
「年金や福祉は、100年大丈夫だ」
などと言った、過去、自分の党を、
「ぶっ潰す」
とかいうようなことを言っていた、ソーリの言葉を思い出せば、どれだけいい加減だったということか、よくわかるというものだ。
結局、その時のソーリが残した傷跡が、今でも足枷のようになって、どうしようもなくなってしまっている。
「それが、今の世の中だ」
と言えるのではないだろうか?
余談になってしまったが、昭和の頃の喫茶店と、今とでは、相当な違いがあるということである。
ただ、このお店は、
「古き良き時代」
を思わせるものが残っていて、しかも、今も現役で動いている。
それは何かというと、
「レコード」
であった。
平成に入ってから、少しして。CDというものが出てきてから、レコードや、昔のカセットテープというものが、徐々に姿を消していった。
昭和の頃のラジカセというと、ラジオをカセット再生、録音ができる機会で、ダビング用に、ダブルカセット機能がついていたりした。
レコードも、今でも、針を盤に落とした時の音が、心地いいと思っている人もいるくらいで、確かに音は、CDの方が、どれほどいいか分からないが、それを加味しても、ラジカセや、レコードプレイヤーというのは、実に懐かしいものである。
何しろ、アンプやカセット、スピーカーまで普通にそろえると、安くても、20万円以上したものだった。
「まるで、今のパソコン並みではないか?」
と言えるのではないだろうか?
そんな店で、大学時代を懐かしく思っていると、またしても、ほのかのことが当た頭をよぎってきた。
しかし、今度はほのかのことを想像しているのだが、登場する自分は、
「今の自分なのだ」
これは、まるで、夢に何度も見る、
「大学を卒業できないでいる自分」
というものを、思い浮べているようだ。
夢を思い出してみると、