再会へのパスポート
「俺は、卒業していて、仕事も持っているはずなのに、当たり前のように、大学の図書館で勉強をしているのだ。帰ろうとして、図書館の玄関を出ると、そこには、スーツ姿でキャンパスを歩いている、元同級生たちを見かけるのだ」
という設定であった。
そもそも、大学を卒業している同級生が、スーツ姿で大学内にいるのも、おかしなもののはずなのに、おかしいとは思いながら、必要以上に怪しむことはない。
そんなことを考えていると、
「自分も、もう24歳なのに、まだ大学生」
という意識からか、年齢だけは、明らかに取っているという思いからか、会社で仕事をしていることに違和感がないのだ。
だから、50歳をとっくに過ぎている自分が、大学キャンパスにいても違和感がない。ただ頭の中では、
「大学はとっくの昔に卒業している」
とは思うのだった。
大学卒業したはずの、大学。しかもだ、卒業した大学でもないわけだ。
実にツッコミどころ満載の状態で、いかに、や、どこを焦点とするのかということが、問題なのだ。
年齢として、年寄りだから、大学生から、
「さぞや、おかしな目で見られるのではないか?」
と思ったが、そんなことはない。
むしろ、誰からも気にされないという感じだった。
ただ、考えてみれば、それも当たり前のことで、大学だからと言って、
「大学生しかいない」
というわけではない。
「先生もいれば、大学職員だっているわけだ」
ということで、むしろ誰も気にしないのは、
「教授ではないか?」
という目で見られている証拠なのだろう。
「ああ、なるほど」
と思うと、晃弘は、何も気にしなくなった。
「それならば」
ということで、背筋を伸ばして、前を向いて学生を気にすることなく歩いている。
すると、見覚えのある図書館があった。
「ああ、夢の中に出てきた、あの図書館ではないか?」
というわけだ。
元々、夢の中の図書館を覚えているということの方がおかしな気がする。
なぜなら、
「夢の中には、色もなければ、大きさも曖昧なものではないか」
ということで、それは、
「目が覚めるにしたがって忘れていくものだ」
と思ったからだった。
そんなことを考えながら、図書館の入り口医入った瞬間、自分が、大学時代に戻った気がしたのだ。
「これから、試験勉強をしないと」
と思うのだった。
年齢は、21歳、
「卒業に向けての試験に臨まなければいけない」
という感覚である。
今回は、ちゃんと資料もあり、情報も揃っている。後は勉強するだけなのだが、
「この言い知れぬ不安はどこからくるのだ?」
と感じるのだった。
大学生を、何年もやっているという、そんなムダな不安がこみあげてくるのだった。
そんな夢を半分見ているような感覚で、大学の図書館で、ボーっとしていると、急に、何かのデジャブが起こりそうな気がした。
今までに何度かデジャブ的なことを感じたことがあったが、かなりの高い確率で、それが確証されるようになるのだった。
そう思って、図書館のロビーの人の流れを見ていると、想像以上に、人の流れの多さに少しビックリしていた。
大学時代から、図書館に来ると、ロビーのソファーに腰かけて、ロビー全体を見渡すくらいの気分になることが多かった。
その様子を今になって見ていると、
「大学時代も、今のように、我に返ってみると、想像以上の人の流れだったのだろうか?」
ということを感じてみた。
きっとそうなのだろう。今感じていることを、その時も同じように思っていたに違いない。
大学キャンパスでは、同じようなことを感じたことはあったが、図書館ではなかった。それだけ、この場所に座って佇んでいるという時は、本当にボケっとする時間帯を作りたいという思いがつよかったに違いない。
それを思うと、大学時代というものが、どういう時だったのかというのが、どんどん思い出され、次第に、
「まるで昨日のことのようだ」
と言った感覚になるのだった。
大学時代というものを思い出してくると、社会人になりたての頃の方が、かなり昔だったような気がする。
大学時代に、小学生の頃、中学生の頃と思い出した時、
「記憶の時系列」
というものが、曖昧だという意識があったのだ。
だが、それは、
「大学時代から見た、前の記憶」
ということで、
「その間には大きなターニングポイントはなかった」
ということであった。
というのも、大きなターニングポイントの最初は、
「就職してからの半生」
だと思ったからだ。
しかし、子供時代でも、ターニングポイントは結構あったとお思う。
「思春期」
「高校受験」
「大学受験」
とあり、さらに、高校時代までとはまったく違う大学時代。
それぞれに、大きなターニングポイントがあったということであろう。
ただ、大学時代から、就職となると、まったく違う。
大学時代というと、最高学歴ということもあるし、
「専門に勉強するところだ」
ということと同時に、友達を増やしたり、いろいろなことができる時代でもある。
だから、就職するということで、かなりの制限があり、しかも、これまでの最高というところから、急に、
「一番下から」
という、分かり切ってはいるが、なかなか納得できないような感覚に、ギャップを感じることであろう。
そういう意味での、ターニングポイントなのだ。
さて、大学に入学してからすぐであったり、就職してからすぐの時に、いわゆる、
「五月病」
というものに掛かる人が多い。
実際に、晃弘も五月病に掛かったものだ。
最初に、
「卒業できない夢」
というものを何度も頻繁に見たというのは、その頃だったのだ。
卒業できない夢を何度も見ていると、五月病というのが、結構長かったかのように思えるのだ。
ある意味、悪影響を及ぼしたという意味で、今度は、その
「卒業できないという夢」
が、最悪の夢として認知される。
しかも、
「目が覚めてから、よかったと思う」
という夢の代表のようになっているのだった。
ただ、夢を見ている時は、
「これは夢だ」
という感覚がないわけでもないくせに、
「夢ではない」
という意識も一緒に夢の中に存在しているのだった。
そんなことを考えていると、人通りが多い中で、一瞬目に留まったその人から、今度は目を切ることができなくなってしまった。
相手も最初はそんな晃弘の視線に気づいていないようだったが、さすがにこれだけ凝視しているからなのか、視線に気づいたようだ。
気づかれたことが分かると、
「視線を切らなければいけない」
と思いながらも、
「決して切ることができない」
ということを再度確認するのだった。
相手も、その視線に焦りを感じているのか、今度は、歩みが遅くなり、しまいには、動けなくなってしまったようだ。
そして、まるで、晃弘の視線に吸い寄せられるように、こちらに向かって歩いてくる。
晃弘もその状況を理解できずに、迫ってくる彼女に対して、
「どうすればいいんだ」
と思い、目線をそらすこともできず、迫ってくる彼女を見つめるだけだった。