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再会へのパスポート

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「結果としては、安堵感が強いが、払拭できない不安感も共存している」
 という感覚だった。
 ただ、それでも、大学近くの喫茶店に立ち寄れば、卒業云々という感覚は消え去って、ただのなつかしさだけがこみ上げてきる。
 それを思うと、
「あの当時のような喫茶店が残っていてくれれば嬉しいのにな」
 と感じるのだ。
 さすがに昭和の喫茶店というのは、今の時代にありえるわけはない。ただ、リメイクして、
「昔懐かしの、昭和を思わせる、純喫茶」
 という店が増えてきていたのだ。
 もちろん、昔と同じ佇まいの店ができるわけもないが、模倣することはできる。店内であれば、ある程度思い出させる佇まいにはできるだろうが、いかんせん、その頃の喫茶店をしっている人が、客としてくるというのは、なかなか難しいことであろう。
 ただ、昔と明らかに違うものも、かなりある。昔であれば、当時のテーブル席には、卓上テレビゲームのテーブルというものが、いくつか置かれていた。100円玉を入れて、テーブルの少し下にあるコントローラーを使って、テーブルの上にあるモニターを前屈みで見ながら操作している姿を見ていると、何とも言えない光景を見ることができるようであった。
 そのかわり、今はスマホを携帯していることから、誰もが、スマホでゲームができる。
 昔の喫茶店では、ゲームをするか、入り口あたりに本棚があって、置いてあるマンガをテーブルに持っていって、そこで読むというのも、多かった。
 世紀末くらいから流行り出した、
「マンガ喫茶」
 というものとも違って、世紀末のマンガ喫茶というのは、
「オープン席か、個室で、基本は目の前にパソコンが置いてあり、マンガは、昔の喫茶店と比較するだけ無駄というくらいの蔵書の数が、まるで図書館のように、無数の本棚の中にこれでもかとばかりに置かれている」
 そこから自分の読みたい分だけ持ってきて読めばいいことになっている。
 昔の喫茶店であれば、
「ワンドリンク制」
 という形であったが、マンガ喫茶ともなれば、ドリンクはフリーで、取り放題だった。
 その代わり、場所代ということで、例えば、
「30分、500円」
 とかいう形で、
「時間で、その場所を買う」
 ということになる。
 そのあたりが、普通の喫茶店とは違うところであった。
 だからなのかも知れないが、その後に流行り出したものとして、
「コンセプトカフェ」
 というものがある、
 大きく分けると、
「メイドカフェ」
 のような、アイドル養成のような店であったり、
「病院をコンセプトにした、メイド喫茶」
 のようなお店もある。
 そして、あくまでも芸術を目的としたお店で、コンセプトとしては、芸術としては関係のないヲタクのような店にして、
「実際は、アマチュア芸術家が、作品発表を行う場所を提供する」
 というところもあるのだ。
 そういうお店の料金体系は、大体は、
「1時間ワンドリンク制」
 ということで、例えば、
「500円以上で、1時間その責を利用できる」
 という感じである。
 そのかわり、メイドカフェのように、女の子がお給仕をしてくれるというヲタク向けのお店だったりするのだ。
 そんな店など、まったくなかった昭和の頃というと、ちょうど、卓上型のテレビゲームの元祖と言ってもいい、
「インベーダーゲーム」
 から、数年が経った頃だったような気がする。
 ゲームの種類も結構あり、麻雀などのように、対戦型もあったりして、それも結構面白かったというものだ。
 ただ、卓上型テレビゲームの時代は、そんなに長くはなかった。
 それから、某メーカーの
「ファミコン」
 などというものが流行り出して、他の会社からも類似の、ゲーム機が発売された。
 テレビに繋いで、家庭でできるという意味で、流行ってきたのだが、実は、ファミコン系のゲームが流行り出したのには、もう一つ別の理由もあったのだ。
 というのも、問題となったのは、学校という現場の問題が、大きく影響していた。
 当時くらいに、社会問題となってきた、
「苛め」
 という問題。
 これが大きく影響してきたということであるが、
 この、
「苛め」
 というのは、昭和の頃からあるのはあったが、平成になると、自殺者が出たり、陰湿ないじめのために、トラウマが残ったりと、大きな社会問題となっていたのだ。
 そのために、学校に行かない生徒も増えてきて、いわゆる、
「不登校」
 から、
「引きこもり」
 となるというコースである。
「不登校」
 というのは、
「登校拒否」
 よりもたちが悪い。
 登校拒否は、学校に行こうと思えばいけるのに、サボりたいなどの場合も、登校拒否となるのだが、不登校は、トラウマが残ったり、
「必ず苛めに遭う」
 などという悲惨なことになってしまうことで、どうしても、学校にいけない人たちのことをいうのだった。
 学校では、苛めが陰湿であったり、大人に分からないようにしたりするということで、巧妙になってきたということもあって、本当の、
「不登校」
 ばかりが増えていくことになるのだ。
 だから、そんな子は、誰にも顔を合わせようとしない。
 家にいても、どこにも出かけず、トイレにいくくらいで、食事も、親が部屋の前に置いておくというくらいまでになってしまっていたのだ。
「どうすることもできない」
 と、まわりの大人は見守るばかり。
 そんな子供が爆発的に増えて、社会問題になっているのだ。
 皆、引きこもってしまえば、何をしているのかというと、一番は、ゲームであろう。
 最初の頃の引きこもりだった頃の子供は、それほど多機能ではなかっただろうが、今の子供のゲームとなると、オンラインで、ゲームの友達とバーチャルでできるという意味で、少しは、活発になってきたと言ってもいいかも知れない。
「ゲームの世界でのオンラインで友達ができてもね」
 という人もいるだろうが、
 まったく友達がいないというよりも、マシかも知れない。
 下手をすれば、完全に一人であれば、
「自殺をしてしまいそうな感情になってしまう」
 ということであれば、本当に自殺をするかも知れない。
 しかし、オンラインといっても、誰か友達や相談相手がいれば、
「自殺をしたい」
 と思ったとしても、何とか止めることができるかも知れない。
 そういう意味で、友達ができることは、マイナスということではないだろう。
 ただ、その友達も悪い奴だったら、下手をすれば、そいつに、洗脳されて、
「自殺をするつもりではなかったのに、自殺をしてしまう」
 という心境にされてしまって、死んでしまうということになってしまうかも知れない。
 それを思うと、
「自殺をしてしまうという心境は、どこから来るのか?」
 ということになるのだ。
 例えば、部屋の中で真っ暗な状態でゲームをしているのを、まわり、例えば親が見ると、それだけで、
「恐ろしい」
 と思うことだろう。
 それこそ、
「たった今からでも、自殺してしまわないか、緊急を要することだ」
 ということになるだろう。
「それこそ、警察に逮捕でもしてもらって、どこかに自殺しないように監禁してもらってもいいくらいだ」
 と考えるかも知れない。
作品名:再会へのパスポート 作家名:森本晃次