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再会へのパスポート

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 というようなことを言われても、まわりはピンとこないかも知れないが、本人にとっては、本気も本気で言っていることだったりする。
 この喫茶店では、その日から、心地よさを感じた時、
「どこかからか、香水の香りが漂ってくるのではないか?」
 と感じさせるものだと感じるのではないだろうか?
 ほのかと一緒にいたその時間、
「何をしていたんだっけ?」
 と思い出せないのは、それだけ、一緒にいるだけで楽しかったということで、何もしていなかったからだといえること。
 そして、
「心地よさの中に香水の香りが加味されたことで、臭いの正体の元々がどのようなものだったのかということが、思い出せないくらいになっていたからではないか?」
 と感じることからではないだろうか?
 喫茶店には、翌日も、恒例のモーニングセットを食べたのだが、その時には、昨日の、
「柑橘系の香り」
 というものが、鼻腔にも、それ以外の感覚にもまったく残っていなかったことから、
「感覚が完全にマヒしている」
 と言えるのではないだろうか?

                 つかさとの出会い

 大学時代の頃を思い出したのは、ちょうど仕事で、大学がある街に行った時のことだった。
 といっても、その場所は、出身大学ではなく、違う大学町なのだが、昭和の佇まいを残しているところがあることで、思い出したのだった。
「今までにも、このあたりに仕事できたことがあったのに、なんで今になって、急に思い出したりしたのだろう?」
 と思った。
 それが、一人の女の子との出会いを思わせるということだということに、その時は気づかなかった。
「まさか、予知能力があるわけでもあるまいし」
 と、苦笑いした晃弘だったのだ。
 その大学町には、営業先があるのだが、元々からの大学町なので、会社は元々少ない。だから、このあたりにくるのは、一月に、2,3度訪問できればいいくらいであろう。
「大学卒業してから、何年経っているのだろうか?」
 正直。もう、30年以上が経っている。しかし、意識の中では、
「数年前まで大学に通っていた気がする」
 と感じるのは、時系列が、曖昧になってきているからではないだろうか?
 時系列というのは、必ずしも、最優先ということではない。事実関係であれば、時系列以外は考えられないが、それ以外は曖昧だ。特に、記憶ともなると、怪しいもので、さらに、その間に人生におけるターニングポイントが挟まっていれば、その数が多ければ多いほど、曖昧になっていくといえるのではないだろうか?
 大学時代、特に卒業間際のことはよく思い出す。何といっても、
「卒業が危ない」
 というくらいだったのだ。
 ということは、就活にも大きな影響があり、
「卒業と、就活のダブルで、かなり苦労した」
 ということが、かなり記憶の中で印象として残ったのだった。
 卒業したら、ある程度、その時焦りは忘れてしまったが、なぜか、夢だけは、いつまで経っても見るのだった。何度も夢に見て、卒業もできずに、試験前なのに。何ら資料もないことで、
「留年確定」
 している自分が、どうすればいいのか、夢で焦るばかりだったのだ。
 焦るのは当たり前というもので、本人は卒業して仕事をしているのだから、資料がないのは当たり前で、そんな中途半端な状態だけが、夢の中での事実となるのだった。
「何て、都合のいい(いや、悪い)夢を見るのだろう?」
 と思うのだった。
 だから、これも、時系列が曖昧だから、夢見も少しおかしいのだ。
「夢を見るというのは、目が覚める寸前の数秒で見るものだ」
 というではないか。
 夢を見たその時に、時系列を重視していれば、そんな短い時間でさばけるわけはないということだ。
 夢の枠に合わせて、夢を見るということであれば、それこそ、
「時系列通りに見れば、曖昧な感覚はなくなるというものである」
 と言えるのではないだろうか?
 それにしても、自分だけ大学生だということも分かっている。頼れる友達はみんな卒業し、就職して新たな道を歩んでいるのだ。
 もし、逆の立場だったら、
「ああ、俺も、同じように大学生活を続けたかったな」
 と思うかも知れないが、卒業し、社会人一年目というのは、遅かれ早かれ、訪れるものではないだろうか?
 それを考えると、夢というのは、自分の気持ちをリアルに映し出すもので、
「記憶を整理している時よりも、曖昧ではあるが、時間の感覚は確かなのかも知れない」
 と感じるのだった。
 そんな夢を見たのは、ごく最近だったような気がする。少なくとも、2,3日前からこっちだったはずで、昨日だったかも知れない。
「これも一種の、予知能力なのかも知れない」
 と感じた。
 同じ大学ということではないが、大学のまわりの雰囲気は結構似ている。ある意味、数十年が経過しても、大学のまわりは、そんなに変わっていないということで、それだけ、
「元々が、発展していた」
 ということなのか、
「いいものは色褪せない」
 ということなのか、どちらにしてもいい意味に捉えることができるというものであろう。
 大学生ではないのに、大学の近くにいると、普通なら、
「懐かしい」
 と誰もが思うのだろう。
 晃弘も同じ思いだったはずなのだが、不安が募ってきて、次第に膨れ上がってくるのだ。
 それが、例の夢に見た、
「卒業できず、何度も留年を繰り返している」
 という夢であった。
 大学生活というのも、半永久的に続けられるものではない。確か、入学から8年が経過すれば、それ以上は学生であることができず、
「中退」
 ということになるのだ。
 そんな中退という恐ろしい二文字を経験せずに済んでよかったのだが、夢の中では、
「中退もやむなく」
 ということであった。
 何しろ、試験前の前日になって、まったく資料がそろっていないのだ。試験を受けるだけ、
「時間の無駄」
 といってもいいだろう。
 大学生の頃というと、確かに、勉強もせずに、試験前に慌てて資料をコピーさせてもらい、何とか試験に備えたものだ。
 その資料がまったくないということなので、弾を込めずに、戦争に行くようなものであった。
「ただ、大学時代も、実際に、卒業が危なかったのは確かである。ただ、何とか授業もしっかりと出席したことがよかったのか、卒業単位を大幅に上回るだけの単位も取れたのは、ありがたかった」
 そんな不気味な夢を見た直近で、大学のある街に赴くというのは、最初から予備知識が入っていたわけではない。
 元々、ここは、計画では、今日の訪問地に入っているわけではなかったはずだ。
 それなのに、この町に来たということは、それこそ、
「予知能力でもあったのではないか?」
 と言えるのではないだろうか?
 大学が違うとはいえ、やはり大学の街にくると、複雑な気持ちになる。
「卒業できないかも知れない」
 という、不安に感じる思いと、
「それでも、何とか卒業できた」
 という安堵の思い、交互にやってくるのだが、その思いは絶対的な優先順位がある。
 それは、
「必ず最後はハッピーエンドだ」
 ということであった。
 それを思うと、
作品名:再会へのパスポート 作家名:森本晃次