再会へのパスポート
なぜなら、朝の起き抜けで、胃の調子も整っていないところで、コメの飯というのは、今から思えば、気持ち悪いだけだった。
しかも、
「やわらかめのコメが健康にいい」
などと、どこから聞きつけたのか、柔らかごはんの毎日は、苦痛でしかなかった。
だが、大学生になって、下宿暮らしをするようになると、朝飯は、表で食べるようになる。
まず、起きてから喫茶店に行くまでに、胃の調子を整えられるのはありがたかった。
しかも、
「コメの飯を食う必要がない」
ということで、これほど、気が楽なことはなかった。
ゆっくりとした馴染みの喫茶店は、店に入る前から、漂っているコーヒーの香りが、これ以上ないというほどの、香ばしい匂いを店内に蔓延っているのだった。
さらに、トーストとエッグの甘く香ばしい香りは、部屋の中に暖かさを醸し出している。
夏の間も、クーラーが利いている中であったが、さらに、その中でのほんのりとした温かさは、夏独特のけだるさを払拭してくれるほどのものだったのだった。
その喫茶店は、木造のような雰囲気で、全体的に、明るい造りになっている。早朝のBBGMは軽音楽が中心で、昼以降は、クラシック中心に変わってくるのだ。
夕方以降は、少々重厚なクラシックになってきて、夜のとばりが下りるのを待っているかのようだった。
映画を見たことよりも、初めてのデートを後から思い出した時に、まず思い出されるのが、この喫茶店での時間だった。
映画を見てから、少し、ショッピングにつき合ったのだが、これと言って何かを買うというわけでもなく、ブラブラしただけだったが、それはそれで、初デートとしては、悪い感じではなかった。
そして、喫茶店についたのが、午後三時くらいだったので、まだ、少し暖かさが残っている時間で、季節が秋から冬に差し掛かるくらいの時間だったので、まだ、ぽかぽかした感じだったのだ。
窓際の席だと、日が差し込んできて、睡魔に襲われるくらいの感覚で、心地よさから、
「本当に眠ってしまうのではないか?」
と感じるほどだったのだ。
結構歩いたので、ほんのりと背中に汗を掻いていて、さらに、夏に感じた忘れかけていたけだるさが身体に残っていたが、嫌な感じのものではなく、心地よく感じるほどになっていたのは、ほのかの香水が、
「甘みを感じさせる中に、柑橘系の香り」
という、鼻腔をくすぐるかのような香りに、どこか酔っているように感じるからではなかったか。
そんなことを思っていると、喫茶店で落ち着いた時間を過ごせると思うと、
「こんな贅沢な時間もないかも知れないな」
と思った。
午後三時を過ぎてくると、あっという間に夕方から、気が付けば夜のとばりが下りているという時間に入ってくる。
そういう意味でも、
「午後三時というのは、一日の中のターニングポイントとして、微妙な時間帯だと言っておいいだろう」
と、感じていた。
時間の経過は、季節によって、まったく違っている。そして、時間帯というよりも、昼下がり、夕方、夜というような、ターニングポイントで感じる感覚も、当然違ってくるのだった。
全体的に、夏のようなけだるさは、この時期になると、なくなっていて、その分、感受性が豊かになっている。
時間的なずれも影響しているのかも知れない。
さらに、夏場のけだるさというものは、
「日が長くなった夏の間」
という時期は、身体中にへばりついてくる汗、さらに、その汗が次第に乾いてくると、身体全体が重たく感じられるようになり、それが、夕方くらいになると、頭痛に変わることがあった。
それが、夏の昼下がりから、夕方くらいに掛けてのことで、頭痛がしない時でも、西日による影響なのか、全体的に、黄色掛かって見え、信号機の色も、
「青が緑であったり、赤がピンク系に見えてくる」
という、一種の、
「目の錯覚」
を覚えさせるのだった。
そんな夏で、何が一番身体にけだるさを与えるかというと、最初は分からなかったが、分かってくると、
「ああ、納得できる」
と思うものであった。
それは、
「身体を動かすことさえ億劫に感じる」
という、
「セミの声」
ではないだろうか。
前述では、汗が滲んだことでの身体全体の重たさを書いてきたが、実はそれよりも大きな影響を与えていたのが、五感の中でも、
「聴覚だった」
ということは、意外な感じがしたのだ。
セミの声は聴いているだけで、うっとおしい。まるで、
「一定以上の年齢の人には聞こえない」
といわれる、
「モスキート音」
のようにも感じるが、実際に、どんなに年を取っていても、セミの声というのは、誰もが嫌悪感、倦怠感を感じるものとして共通な音であることに変わりはないのだろうが、どこか機械音的な共通のリズムであるということから、
「モスキートに近いのかな?」
と感じさせるのだった。
そんな音を感じていると、うっとおしいと思いながらも、
「音がするのが当たり前」
という思いからか、
「次第に音のうっとうしさに慣れてくるようだった」
と言えるだろう。
慣れてくるというよりも、
「聞こえていて当たり前」
という感覚だといってもいいのではないだろうか?
音がどこから聞こえてくるのかということが、自分の中で分からなくなってくると、自然と、意識しなくなるということであろう。
「気にする目的がなくなったからだ」
というのは、一番の理由であろう。
音を意識しなくなると、
「まるで石ころのようだな」
と感じてくる自分に気が付いた。
「石ころというのは、目の前にあっても、意識するものではない」
というものだ。
それは、河原のようにたくさんあっても、目の前にポツンと一つだけあっても、同じことだ。
「石ころでなければ、たくさんあるものの中では、意識しないことはあっても、逆にぽつと一つあれば、気になってしまうのが、人間の本性のようなものだ」
と言えるであろう。
「そういえば、サークルの機関誌に乗せる小説の中に、この石ころのことを書いたのを思い出したな」
最近書き上げたものだったにも関わらず、内容までは、ちょっと読まないと忘れてしまっていた作品だったのだが、晃弘が書いた作品を思い出そうとすると、なかなか思い出せないのが、常だったのだ。
その理由についていろいろ考えたが、やはり一番納得がいくのは、
「集中して書いていたので、後から思い出そうとすると、記憶のさらに奥に、封印される形になっているのではないか?」
と思うのだった。
書き上げた小説というのは、書き上げた瞬間、
「一瞬だけだが、書いた内容を一気に忘れる時がある」
と思ったことがあった。
思い出そうとしても、なかなか思い出せないのは、その瞬間をうまく飛び越えて、記憶をさかのぼらせることができないからではないだろうか?
それを思うと、
「一度書き上げてしまうと、記憶をさかのぼるやり方で小説の内容を思い出そうとしても難しい。何かキーになるものを思い出さないといけない」
と思っていた。
この時の小説のキーが、瞬間思いだした、
「石ころ現象」
というものの意識だったのだ。
そもそも、石ころ現象というのは、