再会へのパスポート
確かに小説というのは、夢に影響を与えるほどのインパクトの強いものがある。
その思いが強かったからか、大学時代には、文芸サークルに入って、小説を書いたりしたものだった。
そんな大学時代だったが、その時、
「俺は一体何をやっていたのだろう?」
と思うことがあった。
何を考えていたのかというと、
「女の子を好きになっていいんだろうか?」
ということであった。
大学というところ、
「入ってしまえば、それほど、変な奴ではない限り、彼女なんて、自然でできるものだろう」
と思っていた。
だから、
「俺にだってできるはずだ」
と思って疑わなかった。
そう思って、タカをくくっていたが、実際に、ずっとできないでいると、
「簡単にできる」
と思っていただけに、
「その考えが間違いだった」
とは思わず、
「できない俺が悪いんだ」
ということになり、
「この俺が、相当ひどいんだ」
と考えてしまい、自虐的な発想は、留まるところを知らないといっても過言ではないだろう。
確かに、彼女ができないのは、自分が悪いのだろう。ただ、
「どこが悪いのか?」
ということはわからない。
次第に冷静に考えられるようになると、
「妄想癖があるのかな?」
と考えるようになった。
どちらかというと、妄想癖というよりも、被害妄想に近いといってもいい。まわりが敵だらけに見えて、
「皆が俺の邪魔をしているんだ」
と考えるようになったのだった、
大学の講義の中での一般教養の中に、
「心理学」
という教科があるが、そこで教授が、世間話程度に話していたこととして、
「昔のアニメや特撮などで、よくテーマに上げられていたものの一つの症候群として、カプグラ症候群というものがあるのだが」
と言って、少し間を開けてから、
「このカプグラ症候群というのは、自分の恋人や親友、さらに肉親などのような近しい人が、悪の秘密結社みたいなところの悪だくみによって、悪の手下と入れ替わっているというものである」
というのだった。
さらに、間を開けて、
「自分のまわりの人間が、どんどん悪と入れ替わっているということは、まわりを、どんどん悪の手下に抑えられていて、次第に、それが自分に襲い掛かるというもので、いつに間にか、自分も別の人間と入れ替わってしまっているかも知れない」
というのだった。
「じゃあ、その時、俺は一体、どこにいるのだろうか?」
と、晃弘は考える。
「実際には、入れ替わったのではなく、自分自身の魂の上に、違う魂が乗り移って、その魂から、あやつられているという感覚なのではないだろうか?」
と感じたのだが、
「どこまでが、この発想で行けばいいのだ?」
と感じるようになったのだ。
教授がいうには、
「タイムトラベルには、タイムスリップとタイムリープというのがあるが、タイムスリップというのは、本人が、そのまま、過去や未来に移動するという考えで、タイムリープというのは、本人の魂だけが、違う時間の自分の身体の中に乗り移るという考え方なのである」
と言っていた。
「なるほど、カプグラ現象を、時間に置き換えれば、タイムリープのような考え方になるのではないか?」
と考えられた。
ただ、そう考えると、自分の身体に入り込むのは、実は悪の秘密結社に送り込まれたエージェントではなく、実は、タイムリープしてきた、
「別の時間の自分本人」
なのではないか?
ということであった。
そう考えると、カプグラ現象として言われるようになった、一種の精神疾患であるが、これは、タイムリープという考え方の証明のようなものではないか?」
と考えられるのであった。
「タイムリープというのは、別の世界の自分に乗り移るということなので、タイムスリップのように、同じ時間の同じ次元に、同じ人間が存在するという、タイムパラドックスは存在しない」
ということである。
だから、タイムリープは、
「タイムパラドックスの証明であり、カプグラ症候群という考え方は、タイムリープの証明なのではないか?」
と言えるのではないだろうか?
そんな話を書いている小説を、大学に入ってすぐくらいに読んだような気がした。
しかも、これは本屋で販売されている本ではなく、サークルの機関誌に乗せている、自分たちの仲間が書いた小説だったのだ。
最初は、
「素晴らしい」
と思ったが、すぐに気持ちは嫉妬心に切り替わった。
「こんな素晴らしい小説が書けるなんて」
と感じたのだが、それが、身近にいるということを感じると、
「なるほど嫉妬したとしても、無理もないことだ」
と言えるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「なぜ、嫉妬するのか?」
というと、
「似たような発想は、以前自分にもあった」
というところからであった。
「一歩間違えば、俺が書いていたのに」
という思いが、
「一歩間違ったから、他の人が先に書いたのか?」
というものであった。
「本当に自分が書ける小説だったのか?」
と考えると、
「いや、俺にはとてもじゃないが、組み立てることはできないだろう」
と思うのだった。
「じゃあ、編集能力の違いだけが、俺が書けなかった理由なのだろうか?」
と考えると、
「そんなことはない。書けなかった理由の一つとして、こんなことを書いてもいいのか?」
という、どこか、恥ずかしさのようなものがあったのかも知れない。
馴染みの喫茶店
小説のネタはいろいろ浮かんできて、それを、ネタ帳に書き込むのは、自分だけではなく、今に始まったことでもない。
小説を書くということが、どのようなものなのかというのは、ジャンルによっても違うだろうし、書く人間の経験や、意識、記憶というものが、大きく影響しているからではないだろうか?
もちろん、
「ネタが浮かんでこなければ、小説なんて書けないよな」
ともいえるわけで、ただ、
「ネタからストーリーを思い浮べ、プロットを作成し、登場人物の設定を行ったうえで、書き始める。その中には、起承転結となる、章というのも存在し、書きながら、体裁を整えていくというのが、小説執筆ではないか?」
ということなのだろう。
晃弘は、大学に入学してから入った文芸サークルで、最初から小説が書けたわけではない。
「小説が書けなくても、サークルで勉強して行けば、必ず書けるようになる。サークルでは機関誌を発行しているから、そこに乗せればいい」
ということであった。
高校の時に、本を読んでいると、次第に、
「小説が書けるようになれればいいな」
と感じるようになった。
喫茶店という雰囲気がよかったのか。それまで本を読むとしても、
「セリフばかりを読んでしまうという斜め読みのような形になってしまって、ん遭いようが頭に入ってこない」
と感じていたのだ。
ただ、喫茶店で音楽、つまり、
「クラシックを聴きながら」
であれば、頭に結構入ってきた。
だから、大学の文芸サークルで小説を書くようになると、その時には、
「クラシックを聴きながら」
ということが多くなっていたのだった。