再会へのパスポート
晃弘は、友達もそんなにいなかった。だから、変なウワサが広がることもないと思っていたのだが、ウワサというのは、自分にほとんど関係のないところからも出てくるもので、それまでほとんど関係のなかった人の視線を急に感じるようになったら、
「ロクなことはない」
といってもいいだろう。
確かに、友達でもない人の視線にビクッとくると、その視線が、
「悪意に満ちたものである」
といっても過言ではないだろう。
それは、まわりの皆に言えることで、クラスメイトは当然のことであり、学校の先生、友達の親なども、変な目で見てくるのだ。
それが、
「好奇の目」
だということに気が付いたのは、だいぶ経ってからのことだった。
「好奇の目」
というのが、いやらしさを含んでいるということに、気が付いたからだった。
ねっとりとしたその視線に、辛さを感じる。人の気持ちが、歪んだ形で見えてくると思うと、まるで、
「四面楚歌」
を感じさせるのだった。
晃弘にも、親友と呼べる人もいた。
だが、まわりが晃弘のことを変な目で見ることで、その友達も、
「皆と同じ視線なんだ」
と思い込んでしまい、本当は、別の視線で見てくれていたことに気付かずに、友達の視線がひどいものになったのだった。
それなのに、最初こそ、友達は、
「俺だけでも味方だからな」
と言ってくれていて、その言葉を信じて、委ねていたのだったが、そのうちに、
「俺には手に負えない」
と言って、親友も離れていった。
最後には、相談しているのに、次第に、相手が面倒臭そうにしていることで、相談することに疲れてしまい、
「お互いに、気分がどうしようもない状態になっていた」
のだった。
そんな晃弘は、一時期、一人ぼっちになってしまった。後から思えば、
「それも自業自得だ」
と思うのだったが、それは、自分の視線が、気持ちをハッキリと表していて、
「あんなんじゃあ、誰も近寄れるわけはない」
と、自分の醸し出す、
「負のオーラ」
が、すべてを物語っていたに違いない。
そんな時期、気分転換ができるとすれば、喫茶店に行くことだった。
そこでは、文庫本を買ってきて、そこで本を読むのが、一番の楽しみだった。
「とにかく、ゆっくりとした時間を過ごし、できれば、時間を無駄にした」
ということを感じないようにいたいと感じるのだった。
喫茶店で読む本は、本屋で買ってくる。本の内容に関しては、SFだったり、ミステリーだったりが多い。
「恋愛小説でも読んでみたいな」
と思っていたが、どうも売れている本は、不倫などのドロドロ系が多く、
「今の俺には、逆効果じゃないか?」
と、考えるようになった。
だから、買ってくる本は、SFやミステリーで、どちらかというと、最後の最後でどんでん返しを食うような作品を探しているという感じだった。
本が、自分にとって、下手をすると、自虐なストーリーなのかも知れないのに、よく読む気になったものだ。
さすがに、恋愛小説よりもいいのだろうが、ドロドロした部分が、何か、返り討ちに遭ったかのように思えて、実に、情けなさすら感じるほどだった。
喫茶店の席に座って、コーヒーを飲む時は、
「SF小説が、一番いい」
と思っていたのだ。
日本の小説で、SF小説で、
「いい作品」
というものがなかなかない。
そもそも、日本では、絶対的にSFというと、なかなか書く人がいないといってもいいだろう。
しかし、昭和の一時期、SF小説的なものが流行った時期があった。
「災害関係」
をモチーフにした小説であり、
「映画化を視野に入れた作品」
というような、壮大な作品が生まれていたのだ。
ただ、それも、ブームというだけで、今の時代では、なかなかウケるものではない。
というのも、
「小説に匹敵するだけの災害が、今までに起こっている」
ということである。
架空の話としては、その発想もありだったのだが、ここまでリアルな時代に入り込んでくると、
「エンタメというだけでは、済まされない」
ということになってしまうのだ。
喫茶店で流れている音楽は、クラシックだった。マスターがクラシックが好きだということで、クラシックが流れているので、夕方以降の調度は、結構暗めだったのだ。
本を読むには、少しきついかも知れないが、若さで何とか乗り切っていた。さすがに50歳を超えた今であれば、
「もう見えない」
というくらいであるが、その頃は、薄暗い照明も、悪くはなかったのだ。
夕方以降からの時間帯で、夕食を取った後の読書となると、
「結構眠たくなってくる」
ということもあり、読んでいるうちに、睡魔に襲われることもあった。
「どの時間帯が一番睡魔に襲われるか?」
というと、
「やはり、昼下がりではないだろうか?」
と感じるのだ、
西日が差し掛かってきて、まるで縁側での日向ぼっこのようで、窓際だと、木製の椅子なので、余計に、ぽかぽかした感覚を味わうことになるのだ。
晃弘は、いつも同じところに座るようにしていた。
最初の頃は、カウンターが多かったが、途中から、窓際の席が多くなってきた。
日差しが差し掛かっているのを感じるのだが、その日差しが、睡魔に変わり、小説を読んでいるうちに、
「寝落ち」
してしまうことも少なくなかった。
そんな時の、半分近くは夢を見ているようだ。
その内容をハッキリと思い出すことはできない。
その夢の、さらに半分は、
「読んでいる本を彷彿させるような内容だ」
というものであった。
読んだ本が、
「命の危険を感じさせるものだ」
ということであれば、恐ろしい夢ではあるが、最後には助かるというもので、どちらかというと、ハッピーエンドなのだが、それは、
「夢の最期まで覚えているからではないか?」
と感じるのだが、
「実際に寝て見る夢も、同じように、最後まで覚えていない夢が多いのかも知れない」
と思うのだった。
確かに夢というものが、
「潜在意識が見せるものだ」
ということであれば、最後まで見たのに、覚えていないという夢があってもいいだろう。
記憶というのも、
「潜在意識があってからのこそ」
だということであれば、
「記憶の前に、意識が存在するものであり、その意識が、潜在意識だというのが、夢というものである」
と言えるのではないだろうか?
潜在意識というものが、一種の無意識に感じる意識だということになれば、
「夢の記憶」
というのは、
「その時と場合によって違ってくるものだ」
と言えるのではないだろうか?
夢というものは、
「見なかったわけではなく、ただ、覚えていないだけのことなのだ」
という説があるが、晃弘は、このことに関しては、
「ほぼ、間違いないだろう」
と思うようになっていたのだった。
読んでいる小説の内容を夢に見るということは、
「それだけ、小説のインパクトが強い」
ということなのか、
それとも、
「小説だけではなく、小説の内容が、潜在意識を動かしているということではないか?」
と感じさせられるということなのか?
ということを考えさせられるのだ。