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二重人格の正体

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 それを考えていると、
「鬱状態は、感覚的にも、身体で感じる時でも、一緒に感じることができ、少しでも、不安を解消しようという意識が働いているのかも知れない」
 と感じるのであった。
 ただ、これが躁状態になってくると、少し感覚が変わってくる。
「躁鬱症において、鬱から躁に変わる時、躁から鬱に変わる時」
 というのが、分かるのかどうかということを感じさせられる。
 白石氏としては、
「鬱から躁になるのは、分かる気がするんだけどな」
 というものであった。
「躁から鬱に変わる時は、黄色信号というものはない。それまで突っ走っていた感覚が、いきなり自分の意識の外で、ブレーキがかかり、そのブレーキを意識の中で、エンジンブレーキのように、自分にさえ悟らせないような努力がある」
 ということが分かれば、その努力は、自分のためにすることのはずなのに、変に気を遣っているかのように思えるのはなぜなのだろう? 
 どうもおかしな感覚であった。
 だが、鬱に入るということは、
「不安がこみあげてきたからだ」
 ということが分かる。
 鬱状態の時には、
「自分がすべきこと」
 というのが分かってきたような気がする。
 というのは、まずは、
「規則正しい生活をすること」
 というのが、まずは大前提であり、その一環として、一番の重要視は、
「十分な睡眠ではないか?」
 と言えるであろう。
 睡眠と、食事というものが、不安を絶えず感じている鬱状態には必要なことであり、これら、
「睡眠と食事」
 というものを、十分に摂るには、
「規則正しい生活が必要だ」
 ということで、
「逆から解釈をしても、当たり前のことに落ち着くのだ」
 ということになるのは、分かり切っていることでもあるのだ。
 鬱状態に陥るというのは、やはり、
「不安というものと切っても切り離せない運命にある」
 ということを感じさせる。
 ただ、鬱状態は、永遠に続くものではないということは、自覚もしているし、本に書いてあったように、
「2週間から約一か月」
 と言われるように、自覚できるところだったのだ。
「短い期間に凝縮されているのではないか?」
 と言われても、こればかりは分からない。
 なぜかというと、
「普段の鬱状態が自分でも分かっていないからだ」
 ということになるのだが、
 凝縮されたその期間というのは、
「誰にも邪魔されないという、誰もが持っている時間とかぶっているのではないか?」
 と感じると、それこそ、やるせない気持ちになる。
 誰にも侵されることのない、自分だけの時間を使えるのに、その時、鬱という、最悪の精神状態をそこにあてなければいけないということは、情けなさすらあるのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「何で、俺がこんな目に遭わなければいけないんだ?」
 という、自分の気持ちを内に籠めるかのような状況に陥るのだった。
「このようなひどい目に遭っているというのは、よほど前世に何か悪事を働いたのえはないか?」
 と考えさせられる。
 だが、そんな白石のことを、気に病んでいる人は、少なからずいるのではないだろうか?
 自分の周りには、たくさんの人がいるからと言って、
「すべてがいい方向にいく」
 というわけではない。
 人によっては、入り込んでしまい、抜け出せなくなるのが怖くて、
「マウントを取ろう」
 としているかも知れない。
 それが、
「侵してはならない領域」
 というものであったりすれば、それ以上、どうしていいのか分からなくなるだろう。
 それを思うと、
「まわりの気を病んでくれている人」
 あるいは、
「助言をしてくれる人」
 から、すれば、
「規則正しい生活をしてくれている方が、こちらとしても、扱いやすい」
 というものであった。
 そんな状態において、本人がどのような、
「覚悟」
 を持ち、さらにまわりも、そばにいることにおいて、どのような、
「覚悟」
 があるかということが大きな問題ではないだろうか>
 本人が覚悟を持つのはもちろんのことである。その覚悟にはいろいろあるだろうが、まず最初に必要なものは、
「病気を受け入れる」
 ということではないだろうか。
 医者は、診断をすると、それに対して、いろいろな助言をするに違いない。
 当たり前のように、生活のし方、対人関係、學校、仕事においての注意事項などがあり、それぞれに対しての対処法などである。
 それをいちいち話す時間もなければ、本人がそんなにたくさん聞いても理解できるわけがない。
 本人が本を読んだり、何度か通院する中で、先生の話を聴くなどしか、理解できるまでにはならないだろう。
 本を読むのもいいのはいいが、何と言っても、人それぞれで、症状に微妙な違いがあるだろうから、その対処法も、場面場面においても変わってくるだろう。
 そういう意味でも、近親者、近しい友人、恋人などが、本人を支える人とならなければいけないということもあり、話を一緒に聴いたりして、その人と、
「一緒に歩んでいく」
 という意味での、
「伴走車」
 という人がいることが大切であろう。
 それも一人ではなく、数人いることが大切で、本人が求めて探すということもあるだろうし、自然と自分のまわりにそういう人が現れるということもあるだろう。
 どちらにしても、本人が、
「病気を受け入れ、立ち向かい、治そうという意思がなければ、成り立たないものだ」
 と言えるだろう。
 それが、この病気にとって、まずは、
「最初のステップ」
 ということになるのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「今度は、自分を支えてくれる人も、覚悟を持ってくれているということを、信じないといけない」
 ということになる。
 まわりの人も、その人を支えるという覚悟をある程度は持たないと、なかなかきついことになるだろう。
「ただの、お友達というくらいでは、相手を理解することは難しい」
 と言える。
「本人は病気なのだから、何を言っても、どこまで本心なのか分からない」
 ということで、ひょっとすると、鬱状態になった時など、自暴自棄になって、普段ならできるはずの判断である。
「こんなことを言ってはいけない」
 という当たり前のことができなくなるというものだ。
 だから、相手は苦しさからか、こちらを攻撃する口調になったとしても、それは、病気だから仕方がない。
 ただ、本人は、それをまともに受けてしまうと、かなりきついだろう。
「病気なんだから」
 と分かっていても、本来なら、
「持ちつ持たれつ」
 という関係でいられるものが、完全に与えるだけで、何も見返りがないと思うと、やるせなくなるのは当たり前だろう。
 それでも、寄り添わなければならないという、
「覚悟」
 ができていなければ、頼られる方もきつくなってきて、我慢できなくなることで、相手とうまくやっていけるかどうかが決まるのだ。
 覚悟ができていない人は、下手をすれば、
「3日と持たない」
 というのも、当然のことなのかも知れない」
 しかし、その3日持てば、そこからしばらくは持つというもので、それなりの期間はうまくいっても、いきなりダメになることもある。
 それは、
作品名:二重人格の正体 作家名:森本晃次