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二重人格の正体

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 と感じるのだろうが、その感覚ではなかった。
 気持ち悪さがこみあげてきて、さっきまでの吐き気が戻ってきそうな気がするくらいだったのだ。
 しかし、もう吐き気はなくなっていたのだが、その時に感じたのが、
「目の前を飛んでいる蚊」
 だったのだ。
 最初は、一匹だったはずなのに、瞬きの瞬間に、相当な数の蚊が目の前に迫ってきているのだった。
 ただ、その蚊は、自分が頭を動かし、一気に視界の端から端までを揺らしてくると、蚊だと思っていたものは、実際には存在するものではなく、
「目の奥にある何かが見せた錯覚だ」
 というものであった。
 そして、日が沈みかけるのを感じていると、
「ああ、飛蚊症のようなものだ」
 と感じるのだった。
 ただ、飛蚊症を感じた時、この頭痛からはじまった一連の感覚が終わりを告げるのだが、考えてみれば、これは、鬱状態の時だけに感じるものであった。
 確かに、このような状況は、
「鬱状態の時の方が多い」
 と言えるのだろうが、実際には、そうでもなかったのだった。
「鬱状態以外でもあったような気がするな」
 と思うと、その時はパターンが違うことに気付いていた。
「鬱状態と時と、それ以外」
 という括りの元であった。
 というのは、
「順番が違う」
 ということであった。
 時間帯は、自分の時間帯が違っても、毎回同じであり、鬱状態以外の時というのは、
「まず最初に感じるのは、視界の錯覚であり、ここでいうところの、飛蚊症だったのだ」
 その飛蚊症は、いきなり来ると、急に不安がこみあげてくる」
 ということだ。
 しかし、これは鬱状態の不安というわけではなく、
「納得のいく不安」
 だったのだ。
 その納得というのは、
「頭が痛くなることを予感させるもので、目の前の視界の悪さを必死で、拭おうとしているのが分かるからだ」
 ということである。
 鬱状態であれば、必死になれる気力がないのだが、飛蚊症は、
「症状の最期に襲ってくる」
 ということなので、それ以上、無理をする必要もなく、実際に無理をすることもないのだった。
 鬱状態において、
「他の状態の時と何が違うのか?」
 というと、この夕方の頭痛の時のように、
「明らかな順番の違い」
 というものを感じることもあるというものだが、実際に、大きな違いを感じるというのは、他にはあまりなかった。
 ただ、鬱状態においては、明らかに不安というものが、徐々に増え続けるのを感じた。
「どんどん不安が膨れ上がっていくのに、なぜ限界を感じさせないのだろう?」
 と思ったが、理屈は少し違っていた。
 鬱状態には、必ず終わる時がやってきて、そこから安定期のようなものを迎えて、今度は躁状態に入るのだ。
 ということで、安定期と呼ばれるところに顔を突っ込んでいくと、次第に、私の中で、
「鬱状態というのも、永遠ではない」
 と思わせるのだった。
 終わりがある鬱状態は、普通で2週間くらい、本当に長い時でも、3週間くらいであろうか? 特に、2週間をいつものこととして、2週間が終っても、
「あれ? まだ抜けないのか?」
 と感じるものだが、この2週間というのは、自覚しているもので、逆に、
「精神的な落ち着きを感じられるようになると、2週間というものが、体内時計に見張られているように、意識がハッキリとするものだった」
 と言えるであろう。
 その2週間を、
「身体が憶えている」
 ということで、
「潜在意識」
 というものが、見せるものだということで、まるで、
「夢を見ているかのようだ」
 と感じるのだった。
 その夢の期間がすぎると、今度は目が覚めるまでは、感覚が曖昧になってくる。目が覚めたのを感じてはいるのだが、それが、身体に掻いた汗の気持ち悪さを、風が煽ることで、体調の良さを感じることができるというものだった。
「鬱状態の時は、この時、体調は復活するように思えた」
「鬱状態の時は、そのほとんどが、病気に覆われている」
 という意識がある。
 身体を必死に、通常の状態に戻すということを行っている時は、鬱状態であり、通常以上のハイな状態にさせるのが、鬱状態いがいの時だ。
 ということを感じさせる。
「どうして、鬱状態の時は、それ以上をしようとしないのか?」
 というのは当たり前のことで、自分でも、
「それ以上はできない」
 という限界というものを知っているからだった。
 この自己認識というものが大切であり、
「分かっているから、たいそうなことにならないのだ」
 と思えてのだった。
 そういう意味で、
「偏頭痛というものは、今に始まったものではなく、ずっと仲よく付き合ってきて、これからも付き合っていくものだ」
 ということは覚悟していた。
 だが、鬱状態の時は、その覚悟を忘れてしまっているのか、不安が、どうしても覚悟を思い出させない要因になっているのか、それを考えると、
「偏頭痛のパターンの違い」
 というのが当たり前のことだと感じるのであった。
 普段の偏頭痛は、ハッキリと分かっていて、
「まずは、飛蚊症から始まり、その状態が抜けてくると、今度は頭痛を感じるようになる。それと同時に吐き気をもよおし、吐き気と頭痛が一緒に襲ってくるというのは、結構きついものだということを、思い知らせる」
 ということだったのだ。
 ただ、
「いつも絶対」
 というわけではないが、ほぼほぼ、
「偏頭痛が起こるのは、夕方の、それも、夕凪を挟むことで、タイミングよく、症状が変わっている」
 と考えられていた。
 鬱状態において、普段との違いはかなりあるのだが、この状態においても、一番の違いは、偏頭痛の症状のパターンではないだろうか?
「精神的な状況を、身体の変調が敏感に感じ取る」
 というのが、この時のパターンなのかも知れない。

                 躁状態と多重人格性の恐怖

 鬱状態というのは、とにかく不安が襲ってくるものであり、本人も辛い時期であった。偏頭痛が起こっている時は、痛みだけではなく、その際に襲い掛かってくる不安にさいなまれた状態で、過ごさなければいけない。
 ただ、鬱状態においては、実際には曖昧な精神状態なので、不安が襲ってくるのも当たり前というものであった。
 しかも、その不安が、永遠に消えないような気がして、
「鬱状態の恐ろしさは、永遠に消えることのない、それでいて、最高潮に辿り着くことはない鬱状態を、またしばらくすると感じなければいけない」
 と言えるであろう。
 躁鬱症であれば、
「躁状態と鬱状態が交互にやってくる」
 というのはわかっているのだが、では、
「躁状態と鬱状態のどちらが長いというのだろう?」
 と考える。
 鬱状態であれば、
「少しでも早く逃れたい」
 という思いから、その長さが自覚できる。
 自分としては、約2週間くらいだと思っていたが、本などで勉強していると、自分の鬱状態というのは、
「最低限の長さだ」
 ということのようだった。
 一見、
「それはよかった」
 と感じられそうなのだが、逆にいえば、それだけ、
「躁鬱の波が激しい」
 ということであり、
「一定区間の長さで、繰り返される回数が多い」
 ということになるのだろう。
作品名:二重人格の正体 作家名:森本晃次