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二重人格の正体

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「時間とともに、ストレスが知らず知らずに溜まっていき、精神や肉体を蝕んでいくものだからである」
 といえる。
「覚悟のあるなしで、どこまで耐えられるかが決まるだろうが、たぶん、自分を抑えられない人に、他人まで抱え込むことは、土台無理だ」
 ということになるのだろう。
 さらに、医者がいうには、
「病気の人は、健常者に受け入れてもらえないことで、どうしても、病気の人間同士で固まってしまうということになりがちなのだが、それも、悪くはないが、深入りしすぎると、共倒れになってしまうという危険性もある」
 というのだ。
「なるほど、お互いに話を聴いて共感はできるが、実際に助け合うということになると、それがどこまで、実際にできるのかということが難しくなる」
 ということである。
 さらにそれだけではない。
「お互いに似たような病気だといっても、人それぞれで違うのだから、お互いに絶対にしてはいけないのが、依存である。依存してしまうと、相手に頼ることになり、頼られた方も病気なのだから、どうすることもできなくなってしまう」
 ということであった。
 そうなると、いかに助け合うかが問題なのに、最初にどちらかが倒れると、こちらも倒れてしまうことを意味するので、こちらも、共倒れになってしまう」
 ということであった。
 ここまでくると、
「もう、どうしようもなくなってしまう」
 ということになるだろう。
 そんな状態の中で、白石氏は、先生との話の中で、
「躁状態というのも、甘く見てはいけない」
 ということに気付かされたのだ。
「躁状態というのは、普通であれば、鬱の苦しみから解放されたようで、まわりから見れば、安心できるというように見られるかも知れないが、果たしてそうなのだろうか?」
 と医者がいうのだ。
「どういうことですか?」
 と、白石氏が答えたが、白石氏も、医者のいうことは、ウスウスであるが分かっていた。
 何と言っても、その本人なのだからである。
「躁状態というのは、鬱の時と違って、それまで重くて、まわりから抑えられ、抑圧された気持ちになっていたものが、開放感によって、爆発するほどの心地よさとなるだろうが、それは、抑えが利かないということであり、下手をすると何をするか分からないということになるんですよ。本人は、何だってできると思い込むわけだから、それも当然のことであり、それを考えると、行き過ぎてしまうということになるわけですよ」
 というのだった。
 つまりは、
「抑えが利かずに、途中のちょうどいいところで止まれないことが、躁鬱という状態を長引かせ、ある程度までいくと、それが、身体に沁みついて、抜けなくなってしまう。それが、躁鬱症というものの始まりではないか?」
 という話をしていた人がいたが、
「それも一理ある」
 と思ったのだ。
 そもそも、その話をしていた人は医者でも学者でもないのだから、信憑性はないのだろうが、話を聴いていて、
「もっともだ」
 と感じさせるところが、
「俺ほどの病気を自覚している人間だからこそ、陥る考えなのかも知れないな」
 と、いい意味、悪い意味、それぞれに一長一短があるように、それぞれの話の信憑性というもの、
「俺でしか分からないところもあるということなんだろうな?」
 と感じるのだった。
 健常者と付き合っていくのも、同じ病気を抱えている人と付き合っていくのも、こちらも一長一短あるわけで、
「一つ一つ、考えていくしかないのではないか?」
 と言えるのではないだろうか?
 そんな中の躁状態において、医者が、少し怖いことを言うのだった。
「さっきも言ったように、躁状態ともなれば、何をやっても怖くないという感覚であったり、何でもできると思うことから、ハイな状況になるんですよね? でも、その直前までは、ハッキリ言って、何をするにも億劫で、しかも、悪いことに、自己否定をする鬱状態にいたわけですよね。自分なんかいなくてもいいであったり、存在していないような気持ちになったりという状態ですね。それがいきなり爆上がりのテンションになるわけだから、悪い方に心が動かないとも限らない。そうなると、死ぬということが、簡単にできてしまう心理状態に一番陥りやすいんですよ。鬱の状態の時は、死にたいと思っても、億劫なことが幸いして、そこまでいかないですよね? でも、それが何でもできると思う躁状態に入り込むと、今だったらできるという気持ちになり、それこそ、衝動的に、リスカをしてしまう人だっている。だから、これが一番怖いんですよ。しかもですよ。他の人も、躁状態になったのが分かるだろうから、安心するので、まさか、自殺などするはずがないと一番感じる時で、油断しているんですよ。本人もまわりもですね。そうなると、これほど危険なものはないかも知れないですね」
 というのであった。
「そうかも知れません」
 というと、さらに医者は、
「でも、あなたの場合はある意味いい傾向なのかも知れません。というのは、あなたは、躁状態から鬱状態に移行する時は分からないといっていたけど、鬱状態から躁状態に移行する時が分かると言っていたじゃないですか、一番危ない時期を、少し前から状況を誰よりも先に理解できるんですよ。自殺をする時は、実際にはまわりが止めるんでしょうが、何と言っても、自制の力というのが絶対に必要で、あなたの場合、さらに早く感じることができるのが、その強みじゃないかと思うんですよ。だから、そこが、あなたにとってのとりえではないかと私は思いますね」
 と医者がいうのだった。
 そんなことを医者に言われて、少しショックな部分もあったが、話を聴いていると、明らかに
「あなたなら大丈夫」
 と言われているような気がした。
 ある意味、
「医者の太鼓判」
 というもので、どんなものよりもありがたい。
 ただ、医者の話で、このままなら、
「自殺札」
 という免罪符を持って、
「このまま自殺をしてしまうのではないか?」
 と考えてしまうのは、怖いことだったのだ。
 自殺をするということが、どういうことなのか?
 今まであまり考えたことがなかった。
「衝動的に自殺をしてしまう」
 であったり、
「自殺をしたくなる瞬間がある」
 という話を聴いたりすると、まったくピンとこなかった。
 しかし、それを躁鬱の状態と照らして話をされると、
「ああ、なるほど」
 と考えてしまうこともある。
「そんな人間に対して、どのように対応すればいいか?」
 ということを、他の人は勉強していくのだろう。
 だが、この場合は、本人が感じたことである。そして、本人が感じるだけでなく、本人に対していかに対応していくかという、
「伴走者にも言えることではないだろうか?」
 そんなことを考えていると、以前、読んだ本で書かれていたことだが、
「人間は、自殺をしたくなることがある。それは、本人の意思に関係なく、忍び寄ってくる恐ろしい、自殺菌なるものの存在があるからではないだろうか?」
 ということであった。
 人間の意思だけで、考えられないものは、
「何かの外的要因から来るものではないか?」
 と考えるのは、無理もないことであり、誰にでもいえることではないだろうか?
作品名:二重人格の正体 作家名:森本晃次