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二重人格の正体

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 それぞれに違いがあるということであれば、
「もう一つの人格は、性格を表に出すための、幻を形成しているのかも知れない」
 と言えるだろう。
 それは蜃気楼のようだと思えば、
「その瞬間、もう一つの人格に、自分の身体を乗っ取られてしまっている」
 と考えると、
「元々の自分は気づかないように、眠らされている」
 と思うと、
「夢の世界というのは、実は、もう一つの性格の自分が、表に出て行動するための、秘密基地のようなものだ」
 と言えるのではないだろうか?
 秘密基地というと、子供の発想のように思えるが、そもそも、夢の中で幻を見るというのも、子供の発想に似ているのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、もう一つ疑問に感じるのは、
「ジキルとハイド」
 のように、本人がジキル博士だとすると、ハイド氏を持っている人がどれだけいるということであろうか?
「皆、持っている」
 という考え。
「ハイド氏という考えは、あくまでもフィクションであり、実際にはありえないことではないか?」
 という考え。
 さらには、
「皆必ず、もう一人の自分を持っていて、それは、ドッペルゲンガーなのか、ハイド氏なのかのどちらかではないだろうか?」
 という考えである。
 ただ、ひょっとすると、
「ドッペルゲンガー」
 であったり、
「ハイド氏」
 以外にも、別の、
「もう一人の自分がいて、第三のもう一人の自分として君臨しているのかも知れない」
 ということで、こちらも一定数いるという考えもできるだろう。
 そんなことを考えていると、
「もう一人の自分」
 という考え方が、いくつかの形で表れていることを示しているようだった。
 そんな難しい発想が頭の中を巡るようになったのも、実際にこのあたりのことを絶えず気にしているからなのか、
「意識には継続性がある」
 ということであり、その継続性が、ある程度までくると、それが記憶に変わっていくのかも知れない。
 さらに、その中に、もう一つ気になるものがあった。
 それが、
「躁鬱症」
 というものである。
「躁状態と鬱状態とが、交互にやってくる躁鬱症」
 というものは、
「ジキルとハイド」
 の考え方に似ているが、微妙に違っているということではないだろうか?

                 鬱状態の違い

「ジキルとハイド」
 というのは、ジキル博士には、ハイド氏の、ハイド氏にはジキル博士の存在を分かっているが、他の人は、自分の中に、
「ハイド氏」
 がいるということを分かっている人は、まずいないだろう。
 あくまでも、あの物語は、
「ハイド氏の存在」
 というものの存在を証明したということであり、実際にいるかどうかはmハッキリしないということだろう。
 ハイド氏の証明というには、もう一つ、前述の、
「躁鬱症」
 という考えが当て嵌まるというものであり、
「ジキルとハイド」
 の物語は、躁鬱症の発想にも結び付いているといっても過言ではないだろう。
「ジキルとハイド」
 は、本当に正反対の性格なのだろうか?
 物語では、まったく正反対だと描かれているが、どこかに共通点があるから、
「同一人物の中に共存できる」
 ということなのではないだろうか?
 つまりは、
「同じ肉体に入り込んでいる二つの別の性格であったとしても、共通点がなければ、存在しえないのだとすれば、ジキルとハイドの物語は、根底から覆される話だといえるのではないだろうか?」
 そんなことを考えていると、
「躁状態と鬱状態であれば、表に出る感情が違うだけで、れっきとした同じ人間だ」
 と言えるだろう。
 それは、躁鬱の中において、躁状態も鬱状態も、同じ感覚で、一つの身体を共有しているということを分かっているのだろう。
 しかも、
「躁鬱の人というのは、躁と鬱を、繰り返しているので、それぞれの躁鬱の共有部分を意識できていて、躁から鬱、鬱から躁への移り変わりを、自分で理解できている」
 と言えるだろう。
 だから、躁鬱症というのは、自分の中で、
「意識していることだ」
 ということになる。
「ジキルとハイド」
 とは、明らかに違うのだった。
 躁鬱症というと、今では、
「双極性障害」
 と言われているようだが、
「躁状態と鬱状態が、交互にやってくる」
 というところは、変わりないようである。
 ひどい人になると、
「身体の変調が顕著で、まったく動けなくなる」
 という人もいるようで、これは、普通の健常者にとっては、分かりにくいところであろう。
 場合によっては、
「怠けるための口実ではないか?」
 などというふざけた発言をする輩もいるが、そういうやつは、因果応報で、
「自分がまわりから嫌われている」
 ということを分からずに、好き勝手なことを言って、何かの助けが必要な時、
「誰も助けてはくれない」
 ということで、その時になって、やっと、
「因果応報だった」
 ということに気付くことだろう。
 身体の変調をきたすほどにきつい人に対して、接し方も難しい。まずは、
「相手の状況を分かってあげる」
 というのが先決であろうが、どうしても、経験者でしか分からないところがあるのも事実だ。
 そこは、相手と接しながら、
「他の人と、明らかに違う」
 というところがあるはずなので、そこをいかに分かってあげられるかということも必要であろう。
 もちろん、病気なので、
「軽症」
「重症」
 など、病状にランクがあったりするだろう。
 本当であれば、医者を交えて、助けてもらえる人が、いかに寄り添える環境を造り、
「何が最優先か?」
 ということを、お互いに共有できるような関係が大切なのではないだろうか。
 とにかく、まずは、相手のことを最優先に考える必要がある。
 ただ、鬱病の人の中には、自信喪失状態などから、
「何もかもが、自分のせいだ」
 と思い込むことで、まわりの人間との交流であったり、援助を断とうとすることなども考えられるが、だからと言って、まわりがそれで見捨ててしまったら、本末転倒のいいところである。
 鬱状態の人をサポートし、
「一緒に寄り添う」
 などという気持ちになった、恋人や友人、家族などは、
「二人の間、あるいは、助けてくれている人との間で、何らかのルール決めをしておくというのもいいのではないだろうか?」
 と言われている。
 たとえば、
「行動範囲に制限をつける」
「引きこもりになりがちの精神状態を共有する」
 健常者であれば、引きこもりというと、
「そんなことはいけない」
 と言えるのだろうが、病気で、精神的にどうしようもなくなってしまう人間に、縄をつけて、言う通りにさせるなど、土台できるわけはないのだ。
 本人が、
「病気であることを受け入れているのなら、それにまわりも従うくらいの気持ちが必要であろう」
 さらに、相手が、どう接してほしいかということを訴えてくれていれば、それに従う。何と言っても、本人が一番分かっていることだろうからである。相手に高圧的に節するなど論外で、
「殺す気か?」
 と言われても仕方がないレベルなのではないだろうか?
作品名:二重人格の正体 作家名:森本晃次