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二重人格の正体

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 最近、
「もう一人の自分の存在を感じる」
 と思うようになったからで、その分、簡単に、物事を考えられなくなっていたのだ。
「もう一人の自分」
 というと、
「ドッペルゲンガー」
 というものの存在を避けて通ることはできないだろう。
「もう一人の自分が、同じ時間、同じ空間に存在している」
 ということだ。
 だから、もちろん、同じ次元ということである。
 しかし、誰も自分の姿を、鏡などの媒体を通さないと見ることができないのと同じことである。
 ただ、気になるのは、ドッペルゲンガーというのが、
「本当に自分の分身のようなものなのか?」
 それとも、
「ただ見ているだけの別人なのか?」
 というのを考えることにする。
 ドッペルゲンガーは、
「見た人は、近い将来に死ぬと言われている」
 ということも、恐怖を煽る一つの原因である。
 いろいろな理由が考えられているが、一つには、
「タイムパラドックスを許さない」
 ということから、
「同一次元、同一時間に、同じ人間が存在しえない」
 ということを証明するために、
「本人を抹殺しようとする」
 ということである。
 これは、ドッペルゲンガーの存在を知ってしまったということもその理由なのかも知れない。
「知られてはいけない」
 あるいは、
「見てはいけない」
 というものを見た場合に、
「ロクなことはない」
 というのは、世の常だといえるのではないだろうか?
 聖書における、
「ソドムの村」
 の話も、
「後ろを振り向いてはいけない」
 と言われていたのに、振り向いてしまったことで、砂になってしまった奥さんだっていたではないか。
 また、ギリシャ神話でも、
「開けてはいけない」
 という箱を開けて、不幸がどっと飛び出したという、
「パンドラの匣の話」
 似たような話で、日本でも、
「開けてはいけないという箱を開けたことで、お爺さんになったという、浦島太郎の話もある」
 ただ、浦島太郎は、本来はそこで終わりではなく、ハッピーエンドになるようなお話だった。それでも、明治におとぎ話を教科書に乗せる時、この、
「見るなのタブー」
 を、重要視するように、最後を、玉手箱を開けることで、お爺さんになったということでのラストになり、中途半端なラストにしたのだった。
 そういう意味で、ドッペルゲンガーというのも、同じような。
「見るなのタブー」
 という同じ考えであれば、
「自分の姿を普通では見ることができない」
 という考えに同調するものだといえるのではないだろうか?
 そんなことを考えると、
「記憶喪失」
 になるというのも、ひょっとすると、
「夢の中で見ていて、それを完全に忘れるために、目が覚める前に一度記憶をよみがえらせて、それを、完全に打ち消すために、一度表に出すという考えなのかも知れない」
 と言えるのではないだろうか。
「一度思い出して、そして、完全に記憶を抹殺する」
 というのは、どこかのSF小説で読んだような気がした。
「記憶が中途半端に残っているからこそ、夢のように、覚えているものもある」
 ということである。
 そして、その記憶が夢の中では、
「怖い夢」
 というものが多い。
 その中で、
「どんな夢が一番怖かったのか?」
 というと、それは、
「もう一人の自分が出てきた時」
 という意識であった。
 それは、子供の頃から意識としてはあった。だから、その頃に、
「ドッペルゲンガー」
 などという話を聴いたことはなかったのだ。
 いつの頃にか、
「ドッペルゲンガー」
 というものの話を聴き、知らない人に教えてあげようと、得意になっていると、
「実際に、知らない人は、ほとんどいなかった」
 ということだったのだ。
 皆が、ドッペルゲンガーという言葉をどこで聞いたのか分からない。
 白石氏は、小説で読んだのだったが、ほとんどは、マンガやアニメの方だろう。
 だが、どこまで知っているのかということも、人によってまちまちだろうが、基本的に、
「もう一人の自分」
 ということと、
「近い将来に死ぬ」
 ということくらいではないだろうか?
 どうして死ぬのかということは、いろいろ言われている。
「そもそも、精神疾患を患っている状態であれば、幻覚が見えても仕方がない」
 という発想であったり、前述のように。
「タイムパラドックスを起こしてしまったことで、どちらかがこの世から抹殺される」
 という
「見えない力が働いている」
 ということであろう。
 さらには、
「ドッペルゲンガーを見る人には、特別な力が働いていて、死ぬことで、その力が神に召される」
 というようなものであったりと、さまざまである。
 また、ドッペルゲンガーには、特徴があるという。
 たとえば、
「ドッペルゲンガーは、本人の行動範囲意外には現れない」
 というもので、要するに、
「海外旅行をしたことがない人の、ドッペルゲンガーを外国で見たとすれば、それは、ただよく似た人というだけで、ドッペルゲンガーっではない」
 さらに、
「ドッペルゲンガーは口を利かない」
 ということで、完全に、夢幻の類に見えるのではないだろうか?
 一人の人間が、
「記憶の一部を失っている」
 と考えられるのは、
「世の中において、記憶だけが、ドッペルゲンガーを証明できるものだ」
 という意識と、
「証明することで、自分がこの世から抹殺されてしまうのが怖い」
 という考えとが、重なって、
「記憶を消すことで、自分の中で、ドッペルゲンガーを抹殺させたいという考えを持っているのかも知れない」
 ということは、
「記憶というのが、もう一人の自分を証明しているのかも知れない」
 という思いと、もう一つ気になるのが、
「ドッペルゲンガーというのは、すべての人にいるものなのだろうか?」
 という考えであった。
 もし、すべての人に言えることであれば、ドッペルゲンガーに遭わないということは、奇跡に近いことではないかと思えるのだ。
 ただ、うまく隠れるようにできているのであれば、その限りではない。
「ひょっとすると、それが、自分の姿を見るということで、ひょっとすると、鏡などの媒体に写っている自分が、本当はドッペルゲンガーなどではないか?」
 と言えるのではないだろうか?
 そう考えると、ドッペルゲンガーは、姿形は、まったく本人と同じなのだから、
「ジキルとハイド」
 には当てはまらないだろう。
 あくまでも、同一人物の中に潜む、別人格であり、ハッキリいうと、
「別人」
 ということになるのだ。
 では、ドッペルゲンガーはどうなのだろう?
 姿かたちはまったく同じものであるとしても、性格なども同じなのだろうか?
 そもそも、人間のように感情を持っていたりはしないのだろう。
「姿かたちが同じものだから、性格が存在しない」
 ということであると、ドッペルゲンガーは、存在しないものであり。幻ということになる。
 というよりも、
「幻でしかない」
 ということで、厳密には、
「もう一人の自分ではなく、実体のないものだ」
 と言えるのではないだろうか?
 それを考えると、
「本人とドッペルゲンガー」
「本人と別人格の自分」
作品名:二重人格の正体 作家名:森本晃次