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二重人格の正体

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 ということになっているではないか?
 そう、ここでいう、
「恥じらい」
 というものこそ、
「人類の最大のテーマ」
 である。
「生命の誕生と消滅」
 に密接に欠かせないものである。
「種の保存」
 というものには、絶対に不可欠で、避けては通れないという問題提起であった。
 しかし、それらが、血で血を争う、悪夢のような骨肉を争いであり。どれだけ生々しいものであると思えば、
「性教育とモラルの問題」
 として、ちゃんと受け継いでいく考えであることを示す必要がある。
 受け継ぐためには、前述の相反すると言われる二つの問題は、
「性というものに真摯にいかに向き合うのか?」
 ということである。
 性教育は必要なのだが、ただでさえ、
「教育委員会」
 がうるさかったり、理鬱に合わない場面もあったりして、
「性欲と一線を画す必要がある」
 と言ってもいいだろう。
 自分にとっての性教育というのは、どういうものなのかということを考えてみると、あからさまに、拒否できるものではないといえるだろう。
 受け入れられるものは受け入れて、それ以外をどうすればいいのか、考えなければいけないということになるのではないだろうか?
 何を一生懸命に難しく考える必要があるのか?
 ということを考えてみると、
「頭の回転が鈍い時は、何をやっても、悪い方に深入りするだけで、余計なことは考えなくてもいい」
 と考えられることだろう。
 頭の回転というと、
「結構早いのではないか?」
 と思われるのだが、どうしても、無理に一つにまとめてしまおうとすると、ロクなことにはならない。
 速さに関してもそうなのだが、逆に、一気に考えさせられることがあるとするならば、その時に邪魔になるのが、
「時系列」
 というものであろう。
 夢というのも、
「目が覚める寸前に見る」
 というではないか。
 当然、時系列などはあってないようなもので、時系列を意識しないえ、別の発想が生まれてくることから、
「寸前のさらに、数秒だ」
 というのも理屈には合う。
 だから、目が覚める時に忘れていくからだ。そうしておいて、分かってもいないくせに、理屈があたかも分かっているかのように言われると、
「時系列を犠牲にして、それ以外の辻褄を合せようとすると、やはり、このような、辻褄合わせという発想は生まれてこないだろう」
 と言えるのではないだろうか?
 夢の内容を、目が覚めるにしたがって忘れるのは、
「思い出してはいけない」
 ということであり、
「思い出さなければいけないのであれば、時系列は無視する」
 という、堂々巡りを繰り返さないようにしないといけないからだろうか?
 実際に夢の範囲が広ければ広いほど、曖昧な意識が生まれてくるのだ。
 そのことを考えると、
「夢を見るというのは、ある程度決まった範囲があるのであって、その範囲外で見た夢というのは、信憑性がない」
 といってもいいのではないだろうか?
 思い出せない夢を思い出そうとするのも、
「絶えず何かを考えている中にあるものではないだろうか?」
 記憶と意識というものの違いや、時系列が絡んだ、立体的な考え方というのは、
「四次元を彷彿させる何かを考えさせるのではないだろうか?」
 白石氏のように、
「ものを作ることが、自分にとっての考えること」
 と思うようになると、頭の中の創造は、
「絶えず考えることを代表しているかのようである」
 と考えてもいいだろう。
「夢に対しての考え方」
 あるいは、
「四次元という、違う次元の発想」
 それらは、一般的に言われている考えと、若干違ったところで考えられるという意味で、
「異次元と夢の世界を、イコールとしてはいけないのだろうが、限りなく近い存在だといってもいいに違いない」
 すぐ横に存在していても確認することができない。
 この思いは、
「暗黒星」
 ということで理屈づけられることがある。
 暗黒の世界に、光ることを決して自分から発しようとしない星で、それは、
「太陽のように、自ら光を発するわけではなければ、地球のように、太陽の光を浴びて、光る」
 というものではなかった。
「光というものを吸収し、決して光を発しない、その星は、保護色となって、そこにいるということになる」
 と考える。
 それだけに恐ろしい星で、
「邪悪な星」
 と言えるだろう。
 そんな、
「暗黒の星」
 というのは、恐ろしいもので、そばにいても、誰も気付かない。
 その人物が、悪魔のような人物であり、通り魔のようなものであれば、本当に恐ろしいというものだ。
「ジキルとハイド」
 における、
「ハイド氏」
 は、まさしくそんな存在なのだ。
 ジキル博士も、実際に呼びだしてみなければ、どんな人間なのかということはわかるはずもない。
 それを思うと、記憶喪失というのは、
「自分の中にいるハイド氏が表に出てきて、何らかの行動をしたことが、まるで自分のことのように思えて、しかし、それが実は違ったという感覚から、記憶が飛んだと思うのかも知れない」
 と思う。
 それこそ、
「覚えていない夢」
 のようではないか?
 白石氏は、自分が記憶喪失だったとしても、健忘症であったとしても、どちらも辛いと思っていた。
 ただ、記憶喪失だというのが、
「勘違いではないか?」
 と思っていることから考えると、
「健忘症の方が、本来なら、もっと年を取ってから罹るものだと考えると、若くしてなったのであれば、それはそれで怖いことだ。記憶喪失であれば、夢に見たものを覚えていないだけということもあり、そこまで気にすることもないに違いない」
 そんなことを考えていると、夢の中に出てきたであろう。自分にとってのハイド氏は、恐ろしい存在になっていると思うと、怖くなるのだ」
 ただ、
「ジキルとハイド」
 におけるハイド氏は、完全に、ジキル博士と正反対の性格だった。
 だからこそ、
「悪魔のような男」
 が生まれたわけで、それだけ、ジキル博士が、聖人君子のようだったと言ってもいいだろう。
 そういう意味で、果たして、白石氏はどういう人間なのか?
「正義か悪か?」
 それとも、
「そのどちらともいえない存在なのだろうか?」
 さらに、あくまでも、フィクションとしての、
「ジキルとハイド」
 本当に、一人の人間の中に、別人格が共存していたとして、本当に正反対の性格だといえるかどうかも疑問だ。
「正反対の性格というものが存在する時だけ、自分の中のもう一つの性格が分からないのではないだろうか? 少しでも共感できる性格であれば、通じ合うものがあるだろうから、存在に気付くはずだ」
 ということを考えると、
「正反対の性格意外の人間は、同一次元に、存在できない」
 ということになるのだろう。
 特に、自覚ができないことで、人がもう一人の自分を悟るためのオーラを感知できないのだろうと思うからだった。
 自覚できないことで。ハイド氏がいるとすれば、意識できるとすれば、夢の中でしかないに違いない。
 というものである。
 白石氏は、ハイド氏のような、
「もう一人の自分」
 という存在を意識しないようにしようとしても、無視することができなくなった。
作品名:二重人格の正体 作家名:森本晃次