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二重人格の正体

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「潜在意識という漠然としたものは、普通に意識できているものはもちろん、元々記憶という古いものを、一度意識の世界に持っていき、そこで、解凍させることで、潜在意識と融合させることで、夢として見ることができる」
 というものではないかと思っているのだった。
 その考えというのが、本当のことなのかどうかはわからないが、
「意識と記憶の間には、ワンクッション存在するものがあり、うまく解凍することができれば、夢として、潜在意識が見せてくれるのだろう」
 ということであった。
 記憶に一度格納されれば、記憶はそのままでは、再生できない。一度意識に解凍する必要がある。
 潜在意識への解凍はあくまでも、
「夢に見るためのもの」
 であり、
「夢の中において、最後まで、これは夢なんだという意識が持てなかったら、それは、記憶から来たものではないか?」
 と感じるのだった。
 夢の中で、時系列が曖昧だったり、思い出すその時が、自分のいつ頃に相当しているのかということを曖昧にするのだ。
 だから、夢の中では敢えて、
「時系列がバラバラだったりするのである」
 事実関係は、時系列に沿っているのが当たり前である。
 その夢の中で、時系列が狂っていたりすると、それは、
「意識の中の強さ」
 だといえるのではないか。
 印象深い夢を見る場合、思い出した記憶が時系列だということはないと認識しているのだが、
「いざ違う」
 という認識になれば、記憶というものが、その領域において、
「決して、記憶の中は、時系列で成り立っているというものではない」
 ということになるのだろう。
 というのは、
「夢に見る順番が決して同じだと言えない」
 ということであり、
「もっと言えば、夢で展開されるものは、なるべく、こじんまりとさせようとするのか、その感覚から、敢えて、時系列でないと思えるのではないか?」
 と考えるのであった。
 自分が、
「記憶喪失なのではないか?」
 と思ったのは、
「夢の中で、そんな矛盾の入り込んだ、時系列のずれというものがなく、実にきれいすぎる記憶しか残っていない」
 と思ったからだ。
 それは、
「忘れてしまった」
 というわけではなく、
「失くしてしまった」
 ということなのだろう。
 だから、
「健忘症ではなく、記憶喪失」
 という感覚が強いのだろう。
 記憶喪失というものをいろいろ考えてみると、テレビなどでよく言われるように、
「思い出すことは、いつ思い出すかということをまったく想像させないもので、次の瞬間に思い出すかも知れないし、明日かも知れない。あるいは、10年後かも知れない」
 と、先生はいう。
「だから、無理して思い出そうとせずに、無理なく思い出すことを心掛けることですね」
 と言われる。
 なるほど、テレビドラマなどで、記憶喪失の人が思い出そうとする時、頭を抱えて、痛がっている姿が、印象的ではないだろうか?
 つまりは、
「思い出そうとするのを見ると、確かに、頭を抱えて苦しそうで、まわりの人が、必死に抱きかかえているところを、警察は、容赦なく、質問してくる。下手をすれば、医者が溜まりかねて止めに入るシーンを見たりするだろう」
 その時医者は、
「やめてください。これ以上患者を刺激するのは危険です」
 と言って刑事を制する。
 その時一緒に、
「これ以上刺激して、二度と思い出せなくなってもいいんですか?」
 と言えば、さすがに刑事も焦って思い出させようとはしないだろう。
「肝心の記憶がなかったら、裁判の時などの証拠にはならない」
 と思えたりすると、強くはいえないのだ。
 記憶を思い出すためには、余裕のある精神状態でなければいけない。痛がっている頭をさらに刺激することは、人間の中に、苦痛というトラウマを抱かせてしまうということで、どうしようもなくなってしまうのではないだろうか?
 白石氏も、自分の記憶の中で、どの部分がいきなり思い出せなくなったのか。そのあたりが分からない。
 それは、今に始まったことではなく、以前から、その意識があったに違いない。
 白石氏は、なくなった記憶が、何らかの力によって、
「失われてしまった」
 ということではないような記憶だった。
 そんな、
「記憶と意識の関係」
 というものが、どこで繋がってくるのか?
 ということを、考えさせられるのだった。

                 もう一人の自分

 白石氏は、
「何かいつも難しいことを考えている」
 という意識があった。
 小学生の頃などは、絶えず数字が飛び交っていた。
 それは、数学ではなく、算数だった。
 これは、高校生になっても変わらず、
「整数による単純計算だ」
 と言ってもいいだろう。
 算数の中にある、
「○○算」
 というものがあるが、それは、中学に入ってから習う数式に代入すればいいということだが、そういう意味で、
「何算を使ったとしても、その答えが一つにまとまってしまう」
 ということを、数学が証明できるのだが、白石氏は納得がいかない。
 小学生における文章題では、解き方を説明されるわけではなく、むしろ答えを導き出すための解き方が問題なのだ。
「的を得ていなければ、答えが正解であっても、それは、偶然に出てきた答えであり、あてずっぽうで答えたのではないかと思われることを避けるためだろう」
 それは、数学にも言えることなのだが、やたらと、代数で答えるのが、模範解答と言えるものなのだろうか、と考えるのだった。
「そういえば、俺は小学生の頃から、本当に絶えず何かを考えている」
 というような少年だった。
「少年というのは、いくつまでをいうのか?」
 ということを考えてみた。
実際の定義は分からないが、
「小学生の間くらいまでかな?」
 と感じたが、それよりも、
「思春期を挟んで、思春期になるまでを、少年期と呼ぶのではないか?」
 と思うと、辻褄が合っているような気がする。
「では、思春期の間は、少年期なのか? それとも青年期なのか?」
 ということになると、意見が別れそうな気がする。
 白石氏とすれば、
「少年期に近いのではないだろうか?」
 と考える。
 その理由は、
「あくまでも、期というものに当てはめるわけではなく、曖昧なところで考えるということで、その理由も曖昧になる」
 と、あくまでも、曖昧さがその理由ということになり、曖昧さを求めるということになるのだという認識で考えられたりする。
 その時、曖昧さをどうしても許せない自分がいると、
「絶えずいろいろ考えている自分というものが、その正当性を証明しているかのようではないか?」
 ということであった。
 そんな思春期において、一番曖昧にしたいのが、
「性的感情だ」
 と言えるのではないだろうか?
「好奇心の塊」
 と言ってもいい、性的感情は、人間の三大欲と呼ばれるものの一つである、
「性欲」
 というものが、目を覚ます時期だといえるだろう。
 ただ、その性欲というのはタブーであり、なぜそれがタブーと言われるのか分からないが、旧約聖書のしょっぱなに出てくる、
「アダムとイブ」
 の話でも、
「禁断の果実をかじることで、恥じらいを覚えた」
作品名:二重人格の正体 作家名:森本晃次