二重人格の正体
「どこまでの人間の命令を聞くのか?」
ということが問題になる。
このあたりも、人工知能の持つ限界への挑戦ということになるのかも知れない。
ロボット工学三原則の優先順位も、その中には矛盾も含まれていて、完全なものではない。
「ひょっとすると、三原則ではなく、四原則、五原則と必要なのかも知れない」
と言えるだろう。
しかし、そうは言っても、増やしすぎるとその解釈のパターンが無限に増えてしまい、収拾がつかなくなってしまうことであろう。
そんな話をひっくるめた中で、
「ロボット工学三原則」
と含めたところでの、
「ジキルとハイド」
の物語は、さらにいろいろな側面を持っているといってもいいだろう。
たとえば、
「二重人格」
という問題である。
そもそも、この話は、
「主人公の中に別人格が潜んでいるのを、博士が分かり、自分の表に出ている性格とは違う性格であるということも考えた上で、もう一人の自分を引き出すための薬を開発し、それによって、自分の性格を知ろう」
ということだったはずだが、実際に潜んでいた人格は、殺人鬼のような悪魔だったのだ。
これも、フランケンシュタイン症候群のように、
「まさか、こんな悪魔が潜んでいようとは?」
ということになるのだろうが、そんな悪魔のような性格が表に出てきたことで、いかにすればいいかを考える。
もう一人の自分を抹殺すると、自分まで死んでしまうことになる。
さすがに、そこには、戸惑いがある。
もし、裏の自分だけが生き残って、表の自分だけが死んでしまえば、それこそ、本末転倒だといってもいいのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「私は、一体どうすればいいのか?」
と悩むことになる。
確かに、おかしな薬を作って、悪魔を作り出したのは自分だ。結果、自分の親友に、ありのままを打ち明けて、自分を殺してもらうように話をしたのだったか。それとも、博士が自殺をすることで、葬り去ろうとしたのだろうか?
どっちでも、なかったような気がする。
人に任せて、悪魔の相手をさせるというのも、難しいだろうし、逆に自殺をしても、自分だけが死んで、悪魔が生き残らないとも限らない。それは恐ろしいことだった。
結末は忘れてしまったが。少なくとも、この二つに関しては、選択肢としては、
「選ばれないに違いない」
と言えるだろう。
そんな状況であったが、問題は、
「二重人格」
というものが、どういう性格のものなのか?
ということであった。
「片方が表に出ている時は。片方は裏に隠れている」
というものだと考えると、
「自分本人は、絶対にその両方を知ることは不可能だ」
ということであろう。
もし、知ることができれば、人が気づく前に、
「もう一人の自分」
というものを、そもそも分かっているはずだからである。
まったくその存在すら分かるわけでもない。まるで、
「自分が自分の姿を見るのに、鏡のような媒体がなければ、見ることができないのではないか?」
ということと同じではないだろうか。
そんなことを考えていると、自分が気づかないだけで、二重人格というものは、
「皆の中に潜んでいる」
ということであり、永遠に表に出てこない人もいれば、時々入れ替わっているという人もいるということだろう。
それを思うと、
「二重人格を掴むというのは、自分ではできないことなのではないだろうか?」
ということになるのだろう。
二重だけでなく、複数ある、
「多重人格」
は、いかに説明すればいいのだろうか?
最近になって、白石氏は、
「自分が記憶喪失なのではないか?」
と感じるようになった。
ひょっとすると、
「健忘症」
ではないのか?
と考えたが、確かに年齢的には健忘症の方が考えられることだが、何かが違う気がした。
一瞬、
「何かを忘れる」
あるいは、
「思い出そうとしたことが何だったのか、それが一瞬にして分からなくなる」
などといった症状ではなく、
「ぽっかりと、記憶の中で、元々あったはずのものがなくなってしまった」
という感覚があるということである。
つまりは、
「記憶を意識の中に持ってきて、それを再生させることができないわけではなく、元々あったはずの記憶が飛んでいるという意識である」
ということだ。
だから、その記憶がどんなものなのかということも、今のところ、想像もできないということであった。
だが、まったく想像できないわけではない。そもそも、ポッカリと、記憶が消えているという認識を持ったということは、最初から、
「意識があった」
と考える方が、自然ではないだろうか?
最近になって、白石は、会社の同僚や後輩から、
「白石さんは、少し雰囲気が変わりましたね」
と言われることがあった。
というのも、
「白石さんは、最初、人当たりがあまりよくなかったのに、最近、出会う人には人当たりがよくなって、まるで、壁が取れた気がするんですよ」
というではないか。
「俺って、そんなに最初、人当たりが悪かったのかな?」
と聞くと、
「そうですね。いつも難しそうな顔をして、話しかけても、ブスっとしたような表情だったんですよ。実際に、難しいことを考えていたんじゃないですか?」
と言われて、
「ああ、言われてみれば、そんな気もするな」
と答えてはいたが、正直、その記憶がないのだ。
そうやって過去のことを思い返そうとすると、不思議なことに、そのどれもが曖昧で。
「何が、どう繋がってくるのだろう?」
と記憶の中が、混乱していた。
記憶が繋がらないと、そもそも記憶がそこにあるのかということが疑問に思えてくる。一つの曖昧な記憶から、勝手に夢を創造しているかのように思えるのだ。
「記憶の創造」
などということは、理屈からいけばおかしなもので、
「創造するというのは、そもそも記憶ではないだろう」
というものだ。
できあがったものを記憶として格納する。創造のプロセスも、記憶ともなると、
「創造ではない」
と言えるのではないだろうか?
記憶が繋がらないのは、
「何か思いだそうというものがあって、あらためて思い出そうとすると、何について思い出そうとしたのか、根本のところで分からなくなるのは、記憶喪失というもののゆえんではないだろうか?」
ということであった。
人当たりというものが、自分の中で、どこまで悪かったということを覚えているかというと、正直意識としてはあるのだが、それが記憶から出てきたものだとは思えない。
だから、逆に、
「記憶というほど古いものではなく、比較的新しい意識が、記憶と混乱しているのではないか?」
と思えることだった。
「ごく最近の記憶?」
ということを考えると、ふと、思い立つのが、
「夢」
という認識である。
「夢というのは、潜在意識が見せるものだ」
ということであれば、この意識は古いものであって、新しいものであっても、普通にありえることだ。
ということは、