二重人格の正体
ということが衝動的なもので、そこに、憎悪のようなものが浮かんでいないということであろう。
これは、自分を殺したくなるという、
「自殺願望に近い」
というものなのかも知れない。
自殺願望というものには、
「自殺菌」
というものが影響しているのではないか?
ということを、白石は結構昔から感じているのだった。
「自殺願望」
というものが、どういうものなのかとうのは、自殺をしようとしたことのある人間でないと分からないかも知れない。
いや、もっといえば、
「自殺をしようとした人にとっても、ハッキリと分からないものではないだろうか?」
と言えるものではないかと思うのだ。
それと同じで、
「人を殺したい」
と思うのも、本当はそういう菌のせいなのかも知れないが、そればっかりは、
「菌のせいだ」
ということにはできないだろう。
なぜなら、他人を殺すということになれば、殺された人にも人権があり、さらに、その人に関わっていた人皆が、大きな影響を受けることになる。その責任の所在をしっかりしなければいけないと思うのだった。
殺された人に、何の非もなければなおさらのことで、
「家族にしても、本人としても、菌のせいにされてしまうと、何ら保証というものがないということになるではないか?」
ということになるだろう。
それは、
「精神異常者は、無罪だ」
というのと同じではないか。
菌のせいにされてしまうと、さらに厄介で、殺人者が、殺人を犯したその瞬間に、
「菌が死んでしまう」
あるいは、
「他の人に乗り移る」
ということであれば、罪の所在もハッキリとしない。
症状としては、
「殺人誘発菌」
とでもいえばいいのか、そんなものが存在しているのだとすれば、これが、
「ジキルとハイド」
の話でいけば、それは、
「二重人格」
の形成ということになっているということになれば、この問題は、もっと厄介なことになるだろう。
誰に罪を着せて、被害者を保証するのか? これは大きな問題である。
ただ、今は、その菌の存在を誰も知らない。本当にあるのかどうかも怪しいものだとすれば、被害者側にとっては、まったくの不利であって、
「被害者も特定されない」
あるいは、
「自分たちの保証もままならない」
ということで、
「踏んだり蹴ったりではないか?」
ということになるであろう。
そんな殺人菌は、犯罪の中でも一番大きなものだが、それ以外の犯罪も、実は菌が働いている場合がある。
その共通点としては、あくまでも、
「衝動的な犯罪」
であり、計画性のある犯罪、たとえば、詐欺であったり、政治家の犯罪などのような、確信犯と呼ばれるものは、このような菌によるものではないということだ。
だから、殺人であっても、最初から犯罪計画がある場合は、
「殺意の否定」
というものをすることができない。
だから、同じ殺人においても、
「釈明の余地もなく、明らかな確信犯というものには、容赦ない裁定が下されることになるだろう」
ということで、
「情状酌量」
というものが認められるのは、少なくなり、そのかわり、無罪放免が増えてくるだろうから、その分、
「計画的な犯罪」
というものに掛かる罪は、さらに重くなり、まったくの情状酌量というものはなくなり、最後には、極刑が待っているということも多くなるだろう。
そうなると、
「死刑廃止論」
というのも、なくなってくる。
そして、死刑にならない代わりに、大きな罪を背負わされるということになるのではないかということであった。
もっとも、死刑執行までの期間も短くなり、下手をすれば、死刑が確定してから、執行されるまでの期間が、1年くらいという、ごく短期間になるかも知れない。
そもそも、死刑囚が、なかなか死刑執行されないというのは、どういうことなのだろう?
法務大臣が執行責任者ということになるので、
「その責を負いたくない」
ということであろうか?
しかし、誰かがしなければならず、それが自分だということになれば、早く執行してやる方が、死刑が確定している人間にとっては。辛いことになるだろう。
そういえば、最近起きる犯罪の中に、
「死刑になりたいから、殺すのは誰でもよかった」
などというおかしな犯罪者が増えている。
これも、
「殺人菌」
なるものの影響だといってもいいのだろうか?
そんなことを考えていると、
「殺人菌」
というものは、
「詭弁でしかない」
としか思えない。
これが、
「自殺菌だ」
ということになると、殺すのが自分なので、理屈的に分かる気がするのだ。
だとすれば、なぜ、
「殺人菌と自殺菌の二つが存在しているのだろうか?」
と感じるのだ。
「すべてが、自殺菌であれば、平和なのに」
と思うかも知れないが、自殺をする人にだって家族はいるわけで、それだけに、
「責任放棄であることに変わりはない」
と言えるだろう。
それを思うと、
「自分を殺すのも、人を殺すのも、どこに違いがあるというのだろうか?」
ということを考えさせられてしまう。
そのことが、余計な発想に繋がっていくのだろう。
もう一人の自分
その青年が、この街に現れるようになったのは、いつ頃からだろうか?
ちょうど同じくらいの時期に、
「夜な夜な怪しい人が徘徊している」
というような話を思い出すようになったのは、最近になってからのことだった。
そもそも、その話は知っていたのだが、
「いつ頃のことだったのか?」
ということは、最近まで分からなかったのだ。
というのも、
「意識してしまうのが、いつからだったのか?」
ということは、なかなか覚えていないもので、気が付いた時が始まりだと思ってしまうことで、その時にはすでに意識をしていたわけなので、元々気になり始めた時期がいつだったのかということは、意識しなくなっているといっても過言ではないだろう。
そういう意味で、その青年がこの街に現れるようになったのがいつだったのかということも、まったく意識していなかったのだ。
「怪しい人間の徘徊」
というのは、警察から注意喚起が最初からあった。
この街が都会のベッドタウンであることから、都心部で最近、
「通り魔」
であったり、
「ストーカー」
のような事件が頻繁にあるということから、周辺の市町村でも、
「気を付けるように」
ということで、県警の作ったポスターなどが、最寄りの駅であったり、学校、オフィス街などの掲示板などに、貼られているのを気にして見る人も結構いたりするだろう。
だが、白石氏は、あまり意識していなかった。
それこそ、
「石ころ効果」
といってもいいのだろうが、
「目の前にあっても、気付かすに、意識もしないそんな状態」
を、
「石ころ効果」
というのだが、それは、
「こちらから見ているよりも、相手から見る方が、視線が強いのではないか?」
ということからか、目の前にあっても、その存在を意識しないようにしているということである。