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二重人格の正体

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 というような作品はなかったのではないだろうか?
 発想はあったかも知れないが、形になったものがなかったのか、それとも、あまりにも原案としての要素しかなかったので、売れることのなかったものなのかということである。
 ただ、心理学的なところで、いろいろ分かってきていた時代だったことから、作者自身が、テーマとなった、
「多重人格性」
 というものの中で、特に、
「二重人格である」
 ということに眼をつけて、そこで開発されていった小説だといえるのではないだろうか?
 そう、あくまでも、
「小説の開発」
 である。
 原案から、一つの形、本という形のものに作り上げるというのが、
「大きなものであり、今も続いている、精神疾患に対しての治療であったり、小説界の、SFや、ホラー小説の発展に一役買っているといってもいい」
 と言えるのではないだろうか?
 白石氏は、子供の頃に読んだ、この、
「ジキルとハイド」
 という小説が、ずっと頭の中に引っかかっていた。
「自分も小説を書いてみたい」
 と感じたのは、この小説を読んだからだった。
 最初に読んだのは、中学時代だっただろうか?
 その頃は、ちょうど思春期であり、多感な時期だったということもあり、密かに自分の中で、
「自分の中に、もう一人の自分の性格が潜んでいるのではないか?」
 ということを感じていた。
 それは、本の影響ではなく、小学生の頃に見たマンガやアニメで感じたことだったのだった。
 ただ、白石氏は、マンガやアニメというのは、読んでいたり、見ていたのは、小学生までだった。
 中学生になり、思春期を迎えると、
「マンガやアニメは卒業するものだ」
 と考えていた。
 別に、
「大人になったら、見てはいけないものだ」
 ということを考えていたわけではない。
 どちらかというと、
「マンガというのは、日本が世界に誇る文化だ」
 ということもちゃんと分かっている方であった。
 しかし、中学生になって、いや、
「思春期になってから」
 と言った方がいいのだろうが、その頃から、マンガやアニメから自分を遠ざけるようになったのだった。
 やはり、
「小説というものを見るようになってから、変わったのではないだろうか?」
 と思える。
 マンガにしてもアニメにしても、見ていて感じたのは、
「絵のタッチが、それぞれのジャンルでパターンがあるのだが、ジャンルごとにある程度ワンパターンにしか見えない」
 と感じたことであった。
 普通であれば、絵のタッチは、
「作者の数だけあってしかるべき」
 と思っていた。
「マンガがオリジナルなら、絵だってオリジナルだ」
 と感じている。
 要するに、言い方は悪いが、
「絵のタッチに関しては、皆、二番煎じなのだ」
 ということであった。
 白石は、マンガであろうが、アニメであろうが、小説であろうが、
「二番煎じは嫌いだ」
 と感じていた。
 いつ頃から、
「二番煎じが嫌になったのか?」
 というのは、あまり意識はないが、その代わり、マンガやアニメが嫌になり始めた時期は憶えているのだ。
 その時期が、ちょうど、二番煎じが嫌いになった時期だったのではないかと思っているのだった。
 だから、小説にスムーズに移行できたようだった。
 ただ、最初は、小説というものに、抵抗があり、違和感があったのだった。
 というのは、これは、白石に限ったことではないが、
「文字恐怖症」
 と言っていいのか、それまで、ビジュアルで感じてきたものを、文字だけで感じるようになるには、それなりのコツがいるのではないかと思うようになっていた。
 小学生の頃の国語の時間でもそうだった。
「文章を読むのは、どうも苦手だ」
 と思っていたこともあって、国語の成績は最悪だった。
 例文が書かれていて、その後に数問の設問がある。
「この文章のこの部分は、何を指しているか?」
 であったり、空欄が空いていて、
「ここに入る接続詞を書きなさい」
 などと言ったものである。
 どうしても、先に結論を得ようと、先に設問を見てしまってから、例文を見るので、
「ピンポイントに、回答してしまう」
 ということをしようとするのだということだったのだ。
 だから、中学生になって本を読むようになって感じたことは、
「どうしても、セリフだけを選んで読んでいる」
 という感覚だった。
 だから、あまりセリフのない箇所は頭に入っていない。
 最初の頃に読みだした小説というのは、ミステリー系が多かったので、どうしても、最初の説明文であったり、
「描写の写生」
 というようなところは、どうしても、
「まるで上の空で読んでいるかのようで、その後の話も集中して入ってこない」
 という、いわゆる。
「ななめ読み」
 という形になった。
 確かに、
「ななめ読み」
 と言われる読み方もあるのだろうが、実際には、
「訓練ができていないとできないことで、それこそ、速読のようなテクニックが必要である」
 と言えるのではないだろうか?
 速読というのは、大人になると、どうしても、急いで読まなければならないものに対して必要なテクニックということで、大学のサークルにもあったりするくらいであった。
 ただ、今のような、全体的な、
「活字離れ」
 においては、そのテクニックがいかほどのものなのか、難しいところではないだろうか?
 特に、最近では、新聞というのも、
「紙媒体」
 というものが売られたり、配達されることも少なくなってきた。
 何と言っても、読み終わった後、ゴミにしかならないからである。
 そういえば、昔であれば、
「古新聞古雑誌を、トイレットペーパーと交換します」
 ということで、今の、
「リサイクルの走り」
 だったものが、今では、
「インターネット」
 なる媒体の出現と、さらには、スマホなどというパーソナル端末によって、簡単に見れるようになったことで、新聞というものを、誰も見るということをしなくなったといえるであろう。
 小説などの文庫も、本屋では、種類が少なくなってきた。
 昔だったら、人気の作家の作品は、文庫本コーナーに一列にいっぱいあったものだが、今では、どんなに著名な作家であっても、数冊しか置いていないというのが現状である。
「売れるものしか置かない」
 ということと、作家の数が増え続け、
「飽和状態になってきている」
 と言っても過言ではないだろう。
 要するに、紙媒体というものが、時代遅れと言われるようになったことで、街の本屋もどんどん姿を消して行っている。
 それだけ、
「時代が進んでいるといってもいいのだろうか?」
 とにかく、急速に変わるものと、昔からの文化とのギャップが大きくなってきているというのも事実であろう。
 躁状態に変わることで、狂暴になって、
「自分が殺人狂になっているのではないだろうか?」
 と感じたりしている。
 この感覚は、躁鬱症では感じられるものではなく、多重人格としての、
「ジキルとハイド」
 のような話しの場合に感じるものであった。
 だから、この発想は、あくまでも、自分の中にある性格によるものでないだけに、
「人を殺したくなる」
作品名:二重人格の正体 作家名:森本晃次