二重人格の正体
「ジキル博士の中に、ハイド氏という人格はあったのだが、それをジキル博士は必至に抑えていたので、決して表に出ることはなかったのだが、本人が開発した薬が、実際には、自分の性格の中に、ハイド氏という性格を浮かび上がらせるだけのものとして作ったもので、しかも、それが永久的に効いているものだ」
と思っているとすれば、まだ、分からなくもない。
そういう意味で、彼の作った薬は、
「失敗だった」
と言えるかも知れない。
この場合の、失敗という意味としては、
「実際に表に出てきたものが、実は副作用だった」
ということなのかも知れない。
というのは、本来の性格だとすれば、あまりにも違いすぎる。
どちらかというと、
「自分にはない。まったく正反対の自分を引き出すというだけでよかったはずだ」
と言えるのではないだろうか?
あくまでも、まさか、これほど凶悪な自分を表に出すという状況になろうとは思っていなかったはずである。
そもそも、本当の目的がどこにあった薬なのか分からない可能性もある。小説では、もっともらしいことを書いているが、もし、これが失敗だとすれば、不可抗力でできてしまった性格なのかも知れない。
だが、小説としては、
「もう一人の自分が表に出てきた」
という方が面白いのではないだろうか?
それを考えると、
「薬の恐ろしさと、副作用というものを再度恐ろしいものとして考えさせられる」
ということを感じさせるのだった。
博士ほどの人であれば、
「自分が、睡眠中、あるいは、意識の外に置かれた状態で、もう一人の性格の自分を表に出すなど、知らないだけに恐ろしいはずではないか。知っていたとすれば、余計にそんな薬を使うはずもない、それを考えれば、博士がもう一人の自分を呼び出してしまったのは、明らかに失敗だったといえるのだろう」
博士は、これを失敗だと認識しているのだろうか? そもそも、最初から、そんなもう一人の自分が出てくるなどということを分かっているわけではないだろうから、この話の一か所に、
「ウソを隠そう」
という意図があるのであれば、他の場面でも同じようなことがあるはずだ。
そういう意味で、このお話が、
「本当にフィクションなのだろうか?」
とも考えられる。
ひょっとして、作者は、このような話を誰かから伝え聞いて、それを題材に小説を書いたのかも知れない。
それが、
「ヒント」
くらいのものなのか、それとも、
「実際にやってみたが、本来の目的と違う副作用が出てきた」
ということを知って、それをあたかもフィクションであるかのように書こうとしたのか?
ということである。
つまり、フィクションというものであっても、小説として、人の心を掴もうとするものは、ある程度の、
「リアリティ」
が必要なのかも知れない。
というのは、別に、本当にあった話である必要はない。あくまでも、
「リアリティ」
というのは、読んでいて、心を打てばいいわけで、そのためには、
「木を隠すには、森の中」
という言葉があるが、本当のことを隠したい時など、
「ウソの中に紛れ込ませるといい」
ということを聴いたことがあるだろう。
そういう意味で、
「リアリティというものは、非現実的なものの中に隠せば、非現実的な中に光る話として光るものがある」
と言えるだろう。
「たくさんの石ころの中に、混ぜてしまうと、見えるものも見えなくなる」
ということなのかも知れない。
「石ころというものは、目の前に転がっていて、一つに集中して見ることがないので、その中に、重要な何かがあったとしても、気付かない場合が多い」
というものである。
その効果が、
「保護色」
というような効果に近いのか、それとも、前日の、
「暗黒星」
のような話しにおいても言えることであろう。
「自ら光を発せず、まわりの光も当てにしないので、まったくその存在を、そして気配までも消してしまうことができる、邪悪な星」
というのが、この、
「暗黒星」
というものの存在であった。
「暗黒星」
であったり、
「石ころ」
であったり、さらには、
「保護色」
というものは、
「まわりの外敵から、自分を守るための、生きていくうえでの知恵であったり、持って生まれた本能のようなものではないだろうか?」
というものである。
そんなことを考えていると、このお話が、元々ノンフィクションだと考えると、
「作者のまわりに、何かの薬を発明しようとして、副作用が大きかったり、計算上、どうしてもうまくいかずに、発想だけがあって、実験もできない形で埋もれてしまったものがある」
ということも考えられるであろう。
あるいは、
「自分の中のもう一人の人物という発想から始まって、薬を使うことで表に出すことができる」
ということにして、逆に、
「薬を使わないと、表に出ることはない」
と言いたかったのかも知れない。
そういう意味で、話をよりフィクションにしないと、物語としてのインパクトが強すぎて、下手をすれば、
「発禁になってしまうかも知れない」
ということになるのではないだろうか?
なるほど、小説としては、非常に難しい話になっているよ。だが、裏を返してみると、出来上がるまでの工夫を読み取ると、
「元々の発想が、意外と簡単なものだったのではないか?」
と感がられなくもない。
ただ、小説が、今ではなく、かなり昔のものであり、たぶんであるが、今まで発刊されてきた小説やマンガが、この、
「ジキルとハイド」
という話を元にしたものが多かったとすれば、似たような発想だけではなく、
「発展した発想が数多く考え出されたことで、基礎になる小説ということで、粗削りなないように見えるようになった」
と言えるのではないだろうか。
そういう意味では、
「数々の作品n影響を与えたレジェンド的作品だ」
と言ってもいいだろう。
もっといえば、
「レジェンドは、パイオニアである先駆者的な作品の中からしか生まれない」
ともいえるであろう。
どんな優秀な作品が、その後に現れたとしても、最初のパイオニアが考えなければ、生まれることはなかったのだ。
優秀な作品を書いた人は、
「人の作品をヒントにできるから、人の心を動かせる作品が書ける」
ということになるのだろう。
先駆者は、インパクトを与えることができても、それ以上を望むことは難しい。そういう意味で、
「伸びしろのある作品を世に生み出した」
ということが、レジェンドとしての素質をしっかり持ったものだといえるであろう。
「ジキルとハイド」
という作品のジャンルを何と感じるかによっても、見方が変わってくるのではないだろうか?
実際の話としては、
「怪奇小説的」
ということである。
いわゆる、
「ホラー」
あるいは、
「オカルト系の小説」
と言っていいだろう。
時代とすれば、十九世紀後半、だから、今から約150年くらい前だと言っていいだろう。
この頃にどのような小説があったのかということは、その時代に生きていたわけではないので分からないが、このような小説の、
「アイデアになる」