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二重人格の正体

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 白石が、一つ気になったのが、
「何でもできると思い込むのであれば、犯罪だって起こしかねないのではないか?」
 ということであった。
「確かに自殺をする気になるのは、その前の鬱状態というのが影響しているからというのもあるのだろうが、それだけ性格が違ってくるのであれば、ひょっとして、もう一人の自分というのが出てくるのではないか?」
 と考えたからであった。
 この考えは、少し厄介なものであって、実際に大前提として、
「もう一人の自分の存在」
 というものを信じていないと、出てくる発想ではない。
 白石氏は、
「自分が躁鬱症ではないか?」
 と考えるようになってから、もう一人の自分の存在を、ふと感じたのだという。
 その考えが、
「ジキルとハイド」
 という、多重人格性というものに結びついたとしても、それは、別におかしなことではなく、むしろ、自然なことであった。
 しかし、躁鬱の気があることを自覚していた白石は、このことを誰にも言わないでいた。
 ただでさえ、
「あいつは躁鬱の気があるから、付き合いづらい」
 と思われていたのに、そこに持ってきて、多重人格だと思われたり、思われなかったとしても、多重人格だと意識していると思われた時点で、あまりいい傾向ではないと、感じさせられるのだった。
 二重人格というのは、躁鬱とは違うものだと思っていた。
 躁鬱のように、基本的に、人格は同じで、その中で、感情がコントロールできないという人を躁鬱症ということで、病気として、治療が必要なものなのだという認識だったのである。
 しかし、二重人格というのは、最初から人格の違う性格が、一人の肉体の中に宿っているというものである。
 だから、躁鬱症の場合は、自分で、躁鬱だということを理解して、それぞれの性格を自分で自覚できる。
 しかし、二重人格は、基本、表に出ている性格以外のもう一つの性格は、隠れているということになるのだ。
 ということは、もし、自分にもう一つの性格が存在するとして、それを自覚することはできるが、感じることはできない。
 つまりは、
「自分にはどうすることもできない」
 というようなものなのだ。
 だからこそ、こちらは病気ではない。治療も何も、
「どうなることが正しい」
 ということが分からないのだ。
 病気というのは、
「どうあるべきだ」
 というのがハッキリしていて、その状態ではないものを、
「病気と称して、どのように、元に戻すか?」
 ということが問題となるのだ。
 だから、多重人格性も、もし分かったとして、
「もう一つの性格」
 というものが、
「出てこないようにすればいいのか?」
 それとも、
「完全に葬り去る方がいいのか?」
 ということになるのだろうが、
「ジキルとハイド」
 の話のように、
「片方を殺してしまうと、片方も生きてはいられない」
 ということになるのではないだろうか?
 などという、結果、どうなるか分からないということに、どこまで突っ込んでいけるかということが問題なのであろう。
「ジキルとハイド」
 のお話は、そういうことだったのではないだろうか?
 だから、フィクションとしてであっても、躁鬱症を問題とするよりも、
「多重人格性」
 を問題にする方が、よほど難しいといえるだろう、
 しかし、逆にいえば、
「多重人格性でなければ、小説のテーマとしては扱えない」
 ということでもある。
 というのは、
「躁鬱症が病気だから」
 と言えるのではないだろうか?
 事実として存在するもので、書き方を間違えると、大きな問題になるだろうし、医者が一生懸命に治療に当たっている患者がその話を読み、
「先生の話と辻褄が合わない」
 ということで、頭の中が混乱してしまい、それがちょうど鬱の状態で、さらにその鬱を刺激して、深刻化させてしまうということになれば、
「何とも罪の重いことだ」
 ということになるのではないだろうか?
 作家の知らないところで大きな物議をかもしたり、さらに、似た作品をまた生み出そうとしてしまうということになりかねないからである。
 それを思うと、
「少なくとも、商業化された流通される本では、躁鬱症のことを扱うのは、素人ではダメなことではないか?」
 と言えるのではないだろうか?
 これが、ストーリーの真髄であったり、話の柱のようなものでなければ、少しは違うかも知れない。
 そういいながら、作者としての、
「中の人」
 は、素人だということで書いているのだが、
「本当にいいのか?」
 ということも、最近考えるようになってきたのであった。
 だが、二重人格などの話であれば、
「ジキルとハイド」
 の話であったり、ホラー小説などでは、普通に書かれているのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「二重人格をテーマにした話は、ホラー、SF、ミステリーなど、多岐にわたって書けるものである」
 と言えるであろう。
 二重人格というのは、躁鬱と違い、もう一人の自分がどのように自分の中に関わっているのかということを誰にも分からないといってもいいのではないだろうか?
 それを考えると、
「夢の中で、怖い夢の代表のように思うのは、もう一人の自分が出てきた時だ」
 と言っている人が、結構いたりする。
 それは、
「いるはずのないもう一人の自分がいるからだ」
 ということで、タイムパラドックスであったり、ドッペルゲンガーの話に出てくる、
「もう一人の自分」
 というように、怖い話であったり、ありえないものという発想から、夢の中での思いとして、
「あくまでも、自分ということであり、二重人格ではなく、躁状態であれば、鬱の時の自分、鬱状態であれば、躁状態の自分を感じているような意識で、辻褄を合せようとするのではないか?」
 と考えたのだ。
 まったく違う容姿であれば、そのままスルーすることもできるのだが、怖い夢として、思いつく一番の感情は、
「もう一人の自分を見た」
 というもので、それが、ひいては、
「多重人格性の恐怖」
 ということで、
「飛躍した考えに至る」
 ということになるのではないだろうか?

                 殺人狂

 躁鬱症において、
「鬱から躁になろうとする時、分かっているだけに、自殺してしまいかけることがあるので、気を付けないといけない」
 と、言われるが、同じように、多重人格において、
「別人格が顔を出しそうな時、何を考えるかということを思うと、実に恐ろしい」
 ということを、白石は感じた。
 これは、
「ジキルとハイド」
 の話を見るからなのかも知れないと、思うのだった。
 ただ、このお話において、ジキル博士がもう一人の自分である、ハイド氏を呼びだす時には、クスリを使っている。
 どんな薬なのかということは、よく分かってはいないが、
「その薬による効果」
 によって、ハイド氏を強引に呼び出し、それによって、ジキル博士の影響がまったくない、
「もう一人の人格」
 が生まれたのかも知れない。
 そう考えると、別の考え方も出てくる。
 つまり、
作品名:二重人格の正体 作家名:森本晃次