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無限ループ

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「幼馴染同士は、あまりうまくいかない」
 ということが、リアルでは、まるで暗黙の了解のように思われているということで、アニメとはいえ、うまくいくのを見るのは、爽快だと思えるからなのかも知れない。
 アニメのようなベタなストーリーは、精神状態によって、正反対の効果をもたらす。
「そんなバカなことはない」
 というリアルを考えてしまう時と、
「こんな関係になれればいいな」
 という、夢見る気分になっている時である。
 どちらがいいのか分からないが、ベタな内容のアニメを見てしまうのは、
「そのどちらでも、嫌ではない」
 と思うからではないだろうか。
 どっちに転んでも、嫌な気分がしないというのは、気が楽なもので、普段から、考えすぎてしまったり、考えが一周まわってしまったりする人には、本当に気が楽だといえるのではないだろうか?
 幼馴染がいてくれると思うだけで、あいりの気持ちはスーッと楽になっていくのであった。
「彼のような気分になれる、彼氏ができればいいんだけどな」
 とあいりは思うようになっていた。
「だったら、彼でいいんじゃないか?」
 という人もいるだろうが、
「幼馴染」
 というワードは思ったよりも、自分を締め付けるようだ。
 あいりは、
「難しいことは分らない」
 と自分で思っていた。
 軽い躁鬱症にかかっている。精神的には、躁鬱症の気があるのだろうが、その影響が身体に現れることはないので、病院には行っていない。
 本当はいくべきなのだろうが、まわりにバレるということも、自分で認めなければいけないということも、嫌だったのだ。
 何と言っても、
「自分で認める」
 ということに、すごい勇気がいりそうな気がする。
「躁鬱症ですね。薬を出しておきましょう」
 と言われ、大量の薬の山を見せつけられたり、
「これから、治療をしていきますので、定期的に通ってきてください」
 などと言われると、病院にくるだけでも勇気がいるのに、
「これじゃあ、症状が出ていなくても、病院にくると、症状が出る」
 という、悪循環に陥ってしまうのではないか?
 と感じるのだった。
 いろいろ調べてみると、実際の躁うつ病、いわゆる、
「双極性障害」
 と言われるものは、身体に変調をきたしたりするものだということだ。
 そこまでひどくはないが、意識として、躁状態、鬱状態、そして、その混合状態も分かっていることで、
「ああ、自分の中の躁鬱が始まったんだ」
 と思うのだった。
 鬱状態に陥ると、
「何をやっても楽しくない」
 という思いを中心として、
「いつも何かを考えている」
 と思っている自分が、鬱状態でも絶えず考え事をしているのだが、それが、空回りして、その先にあるものが何であるか、分かっているはずなのに、敢えて、分かろうとしない自分がいることを感じる時であった。
 まるで、奈落の底まで続いている、螺旋階段を、降り続けているように感じる。それこそ、
「負のスパイラル」
 ということを感じさせるものだった。
 そして、鬱状態の特徴というと、
「色」
 だったのだ。
 昼間の比較的明るい時間は、信号機の赤い色は、ピンクっぽく見えて、青信号などは、今度は緑色に見えるのだった。
 特に夕方の時間の、
「ろうそくの火が消える寸前」
 というような時間帯はそうだったのだ。
 しかし、これが火が沈んで夜になると、信号機の、
「赤信号も、青信号も、より原色に近づいていき、信号機が鮮やかに見える」
 のだった。
 夕方の時間は、昼間にたまった疲れが、凝縮されたかのように、色が混じってしまって、混在した状態になり、渋滞している気分になってくるのだった。
 信号機の明るさが、自分の中でいかに精神を表しているか?
 そして、精神を蝕んでいるかということに、気付くのが、
「躁鬱状態の時だ」
 というのは、皮肉なことなのかも知れないと感じた。
 確かに、鬱状態の時は、自分でも何ともしがたいことになるのだが、それ以上に、やりたいと思うことが、カオスな状態になるからなのか、
「何をしていいのか分からない」
 という、
「負のスパイラル」
 に入り込むのだった。
 信号機の、
「青と赤」
 とは別に、黄色い明かりを感じる時がある。
 それは、
「鬱状態から、躁状態に切り替わる時」
 だったのだ。
 それを感じる時というのは、
「トンネルの中にある、黄色いランプが、その信号機を彷彿とさせるものだ」
 ということであった。
 トンネルから先を見ると、遠くの方に、出口のようなものが見えた気がする。それが実際に本当の出口なのか、それとも、別のものなのか、分からないのは、一瞬だけだった。
 しかし、出口だと思うと、次第に出口が大きくなり、トンネルの中の黄色い空間に、表の明かりが差し込んでくると、爽快さが生まれるのだ。
 それが、
「鬱状態からの出口」
 となるのだが、鬱状態というのが、本当に普通の状態になるのならいいのだが、それを通り越して躁状態になってしまう。
 躁状態は、確かに、鬱状態よりは精神的に楽なのかも知れないが、決して、
「いいことだ」
 とは言えないのだ。
 躁状態というのは、
「何でもポジティブになり、今まで辛かったと思っていたことでも、できる気がするし、何でもできてしまうというような気分になる」
 という意味で、
「いいことばかり」
 と言えるのかも知れないが、
「すべてにおいて、いいことだ」
 とは、言い切れないだろう。
 逆に、
「鬱状態の方が、まだマシだった」
 ということが言えるかも知れないくらい、深刻なこともあったに違いない。
 それを思うと、あまり余計なことも考えられないだろう。
 うつ状態に入ると、
「何をやればいいのか、分からない」
 と考えると、前に書いたが、そこに至るまでに、自分の身体が、いうことを聞かないくらいになることもあれば、鉛のように重たい身体を動かそうとして無理が祟って、目がくらんでしまって、動けなくなることで、そんな動かない身体に苛立ちを覚えながら、頭が混乱するからであろう。
 さらに、もっとひどいのは、
「人間不信」
 であった。
 あいりは、友達がそんなにいる方ではないので、今は相談するのは、田代だけだった。学生時代には、結構いろいろな人に、相談したり、話を聴いてもらったりしたが、最初は何とか聞いてくれる人も、何度もになると、だんだん避けるようになってくる。
 彼氏ができて、その人に、
「私、精神疾患があるの」
 と最初に話をすると、
「大丈夫だよ。そんなことは気にしないから」
 と言ってくれたので、それが嬉しくて、ついつい調子にのって相談してみると、どうやら、話が違っているようで、
「そんな病気を持っていても気にしないよ」
 というだけのことで、
「気を遣って気を付けてあげよう」
 という思いを持ってくれるものだと思っていたが、それは大きな間違いだったようだ。
 精神疾患といっても、いろいろあり、前述の双極性障害、統合失調症、健忘症なども、その一つになるかも知れない。
 だから、普通の人に話すことと同じ感覚で話をするわけにはいかない。
 相手は、
「普通にいつも通りしてくれれば、それでいい」
作品名:無限ループ 作家名:森本晃次