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遅れてきたオンナ

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「五分前のオンナ」
 が消えてしまっても、
「五分後のオンナ」
 は、少しの間は、自分の前にいるだろうと思うのだった。
 だが、それは、本当のその女がいるのかどうか、正直分かっているわけではなかった。
 それも、最初の、
「五分前のオンナ」
 というものを、幻ではないかと思っているからで、だから、あくまでも、二人のオンナの両方が存在している世界だけが、正しいと思うようになっていた。
 それを考えると、それぞれのオンナの、それぞれの前後、つまり、
「かぶっていない瞬間」
 というのは、お互いに幻なのではないかと思うのだった。
 だが、こんな風にも思っている。
「お互いのオンナが同一の人間だという確信を持ったのは、いつだったのだろう?」
 ということである。
 同一人物が、時間差があるとはいえ、二人が図ったように自分の前に現れるということは、俄かに信じられるわけなど、あろうはずはない。
 そんなことを考えると、男は、次第に、二人のオンナが同一人物であるように思えて仕方がなかった。
 しかし、それは、なぜか、
「五分前のオンナ」
 に対してのことでしかなかった。
 なぜなら、男は、今まで、
「五分前のオンナ」
 に声をかけたことはない。
 あくまでも、オンナが喋っていることに対して、ただ、頷いているだけだ。
 しかも、表情が変わったとは思っていない。まったくのポーカーフェイスで、ニッコリと笑っているように見えるのが、一種の理性の現れではなかったか。
 男の表情から、笑顔が消えれば、オンナは恐怖に顔が歪むのではないかと思うのだ。
 女はあくまでも普通の女であり、現れ方はセンセーショナルというだけで、実に普通なのだ。
 どちらかというと、その二人が現れた、目の前の男の方が、性格的に変わっていて、
「だから、この男の前に現れたんだ」
 という人もいるだろうが、それよりも、もっと単純に、
「この女の、男性の好みが一致した」
 ということから、誰によってかは分からないが、選ばれたということなのだろう。
「五分後のオンナ」
 が、男に対して接するのも、何ら違和感のないことから、さらに、同一人物という思いを抱かせる。
「それにしても、五分という時間の感覚はどこからくるのだろう?」
 という思いであった。
 最初に、
「五分後のオンナ」
 が現れた時、思わず時計を見たが、その時が、ちょうど五分であり、次の日にもまったく同じシチュエーションがあったので、この時も、また時計を見ると、五分だった。
 2度までも見ると、もう3度目はなくとも関係なかった。五分というのは、
「確定事項」
 ということだったのだ。
「五分後のオンナ」
 というものが、現れて、男は、
「軽いパニックに罹ってしまった」
 と言えるだろう。
 それは、この男に限らず、誰でも同じことだろう。
「同一次元の同一時間に、同じ空間に、同一人物が存在する」
 ということは、
「タイムパラドックスだ」
 という理屈は当たり前のことである。
 それが、理屈として考えてしまうと、パニックは次第に深くなり、
「俺は気が狂ったのではないか?」
 と感じるようになったとしても、それはしょうがないことに違いない。
 男は、タイムパラドックスというものに対して、どこまでの知識があるかというと、
「せめて、テレビドラマやアニメでやっている程度だ」
 ということで、これこそ、
「その他大勢だ」
 と言ってもいいだろう。
 時々ある、
「タイムトラベルもののSFチックなもの」
 と言ってもいいだろう。
 ちなみに、タイムトラベルというのは、大きくわけて、
「タイムスリップ」
 と、
「タイムリープ」
 に分けられるといってもいいだろう。
 タイムスリップという考え方は、昔からいわれている、いわゆる、
「タイムトラベル」
 という言葉に総称されるものであり、要するに、
「その人全体が、タイムマシンか何かの媒体を使って、時空を移動する」
 ということであった。
 しかし、
「タイムリープ」
 というものは、理屈が違っているのだ。
「タイムトラベルとするというのは、同じなのだが、今の自分の、身体以外のもの。つまり幽体離脱した魂のみが、時空を超えて、新しい世界に飛び出し、その世界にいる自分の中に入り込む」
 という考え方だ。
 この考え方に、細かいツッコミどころは満載であるに違いない。しかし、それをどこまで理論づけて言われているかということまではよく分からなかった。
 例えば、
「新しく開けた世界の自分に乗り移った場合。元々いた自分の魂はどうなってしまうのか?」
 ということであったり、そもそも、
「自分が最初にいた時代の自分が、魂が抜けてしまったのだから、その間はどうなっているのか?」
 ということである。
 ただ、考えが許されるのだとすると、
「タイムリープは、必ず最後には、元の場所に帰る」
 ということが大前提ではないかということである。
 タイムリープをしてから以降、新しい時空にどれだけの時間とどまったとしても、最終的に、
「自分が旅立ったその瞬間に戻ることができれば、元の世界では、何もなかったことになる」
 ということである。
 そういう意味で、タイムリープという考えは、
「タイムスリップでは、タブーとされていることを、理屈として、証明できるようにした、実に都合のいい解釈ができる存在だ」
 と言ってもいいだろう。
 新しく開けた時空にいる自分の中に入り込むのである。元いた自分は、自分の中で、夢のように、出現できるところが限られているのかも知れない。
 そして、自分が、タイムリープしたその先にあるものが、自分だということは、タイムパラドックスでいうところの、
「同一次元同一時間に、同一人物の出現」
 ということはありえない。
 しかも、
「過去を変えてしまう」
 ということにしてもそうだ。
「未来から来たとしても、乗り移った自分は、自分でしかない。何しろ、肉体は同じものだからだ」
 と言えるだろう。
 それを考えれば、
「やはり、タイムパラドックスが起こらないようにするタイムトラベルを考えた時、タイムリープというのは、あり得ることではないか」
 と言えるのだ。
 ただ、このタイムリープはあくまでも、
「自然現象」
 のようなものであり、人間が作為的に起こさせることはできないということになれば、逆に、
「人間にとって、タイムトラベルというものが実現できないということが、確定したということになるのであろう」
 という烙印を押されてしまうに違いない。
 だが、そういう理屈もあって、タイムリープという考えが浸透していなかったのかも知れない。
 実際に考え方は昔からあったはずだ。主流として語られなかったのは、自分たちでタイムトラベルという発想を、抹殺してしまうようで、忍びないという思いがあったからではないだろうか?
 タイムリープした先にいる自分が、
「自分の中で眠らされている」
 というような考えであれば、これが、
「夢の中」
 と考えると、辻褄が合うのではないだろうか?
 夢の世界には、
「もう一人の自分が住んでいる」
 ということを感じた人は結構いるのではないだろうか?
作品名:遅れてきたオンナ 作家名:森本晃次