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遅れてきたオンナ

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 というものがあるが、歴史小説が、時代考証をしっかりとしたノンフィクションであるのに対し、時代小説は、もっと、エンターテイメント性が重要で、架空の話を、時代考証をあまり考えずとも、楽しめる作品を目指すということが、その使命となるのだ。
 つまり、勧善懲悪であったり、読者が読んでいて、スッキリする形のものが要求される。そういう意味では、時代小説と言っても、読者は、ある程度の歴史的知識を持っている方が、絶対に楽しめるというものだ。
 だが、
「歴史の知識がない人が見ても、同じように楽しめる」
 という作品でなければいけない。
 それが、時代小説と、歴史小説というものの違いであった。
 ラノベはファンタジーなので、少なくとも、エンターテイメント性がなければダメだ。何といっても、マンガやゲームの原作だということが、最初から分かっているからである。
 ファンタジー小説の中では、
「異」
 のつくジャンルとは別に、また、
「転生モノ」
 というものがあるようだ。
 正直、難しいことは分らないが、
「輪廻転生」
 のようなものだということであろうか?
 ただ、それらファンタジー諸説と言われるものも、昔からのジャンルとして存在している、
「SF小説」
 であったり、
「オカルト小説」
 さらには、
「ホラー・怪奇小説」
 などというものに密接に結びついてくるというものだ。
 さすがに、さくらには、そんな
「ファンタジー小説」
 のようなものは書けないが、
「SF」
 あるいは、
「オカルト」
 などと言った小説は、書けるのではないかと思うようになっていた。
 特に、気になったのが、
「時間を使う」
 ということと、
「夢に出てくるような発想」
 というものであった。
 夢に出てくる発想として、一つ思ったものとして、一つ考えたのは、
「夢というのが、毎回覚えているわけではない」
 ということであったが、そんな中、
「覚えていないだけで、見ていないだけではないのではないか?」
 と思ったことだった。
 そこで考えたのが、
「いつも一定の夢だけを覚えているのではないか?」
 という考えで、それが、
「もう一人の自分を見ている」
 という発想であった。
「もう一人の自分」
 という発想は、さくらの中では、
「一番怖いことだ」
 と印象があった。
 というのも、
「誰から睨まれても、臆することのない人であっても、そういう人ほど、自分から睨まれることを、恐ろしいと感じるのではないか?」
 ということであった。
 しかも、
「もう一人の自分など存在しない」
 という当たり前のことを思っている時に、ドッペルゲンガーというものの話を聴かされたことで、正直ビビッてしまった。
 まるで、自分の心の中を見透かされているかのように感じたさくらは、
「一番怖いのは、もう一人の自分を感じた時だ」
 と無意識に思うようになったのか、
「夢を見ている時、一番怖い夢は何か?」
 と聞かれると、
「もう一人の自分が現れた時」
 と答えるに違いないと思っているのだった。
 実際に、何度ももう一人の自分が出る夢を見ている。そして、そんな時に限って、夢の内容を、ほとんど覚えているのだった。
 それを思うと、
「夢というものは、潜在意識が見せるものだ」
 と言われるが、まさにその通りなのだといえるだろう。
「ドッペルゲンガー」
 と呼ばれるものは、
「もう一人の自分」
 と言い換えることができる。
 これは、
「世の中には似た人間が、3人はいる」
 と言われているが、そんな、3人のうちの1人ではない。
 正真正銘の、
「もう一人の自分」
 であり、
「似て非なる者」
 というわけではない。
 ただ、ドッペルゲンガーの存在は、証明されているものではなく、
「著名人などが見たといっていて、実際に謂れ通りになった」
 ということから、その信憑性が騒がれているのである。
 その謂れというのは、
「ドッペルゲンガーというものを見ると、近い将来、死んでしまう」
 ということであった。
 いろいろな理由付けが存在する。
「元々、神経に疾患があることで見る幻なので、そのために、命を落とす」
 ということであったり。
「同一の人間が、同一次元の同一の時間に存在していて、それを見るという形で、接触したことで、タイムパラドックスに抵触したのだ」
 という理由付けもある。
 そのどれもに、一長一短の理由があり、
「俄かには信じられないが、無視もできない」
 ということなのであろう。
 実際、昔からいわれ続けていることであり、実際に照明もされていないことなので、それだけどこか、
「神かかっている」
 ということになるといってもいいだろう。
 ドッペルゲンガーというものは、本当にどういうことなのかということを突き詰めていくと、
「危険な領域に足を突っ込んでしまうことになるかも知れない」
 という思いもあり、実際の伝説や、研究内容を踏まえででないと、中途半端に沼ってしまうと、本当に、
「底なし沼に嵌りこんで、抜けられなくなるかも知れない」
 と思える。
 そういう意味で、本当にドッペルゲンガーによって、
「消された」
 と認識される人は、
「軽い気持ちで踏み入れてはいけない場所に足を踏み入れた」
 という、まるで、戒めのようなものなのではないか?
 と言われることもある。
 もちろん、どこまでが本当のことなのか、誰にも分かるはずがない。言い伝えというものが、いかに甘いものではないのかということを、実践しているのではないだろうか?
 それこそ、宗教かかった考え方であり、変な新興宗教は、絶対に忌み嫌われ、世間から敵対視されてしまうであろう。
 確かに、昭和から平成に掛けての、変な新興宗教はひどいのが多かった。
「家族を捨ててでも入信する人」
 が続出したり、
「テロ行為で殺人まで至る」
 というところがあったり、
「お布施と称して貢がせ、俗世をメチャクチャにして、その子孫にまで借金や不幸を背負わせる」
 というところもあったりした。
 それは、俗世の政治家と絡んだりする宗教団体があるのだから、
「法律なんか、あってないようなものだ」
 といって、見直しが迫られる事態に何となく陥っているのが、今の世界ではないだろうか?
 そんなドッペルゲンガーを意識しての小説なのか、さくらは、小説の中で、
「五分前のオンナ」
 というものを意識させるような内容にしようと思っていたようだ。
 主人公の女性が、
「五分後と、五分前にそれぞれ存在している」
 ということから考えたようだ。
 だから、
「彼女は必ず5分経てば、移動する」
 ということになり、
「五分前のオンナがどこかに行くと、五分後にまたオンナが現れる」
 ということになる。
 つまりは、
「前のオンナは、タイムリミットが5分しかないので、何もできない。後から現れたオンナも、前のオンナを追いかけているだけなので、結局、五分後には、どこかに移動していることになる」
 というわけなので、本当であれば、何かの行為はおろか、
「話もまともにできないのではないか?」
 と思われるわけで、果たして、どうなのだろうか?
作品名:遅れてきたオンナ 作家名:森本晃次