遅れてきたオンナ
とよく言われるが、果たしてそうなのだろうか?
というのも、その感覚は、
「後から思い出して考えた時」
に思うことである。
つまり、
「過去の時系列」
に近いものなのだ。
どういうことなのかというと、
「楽しいことも、辛いことも、今からどれくらいの過去にあったことなのか?」
ということを比較対象として考えているわけではない。
どちらかというと、
「時系列で、どれだけ遠い過去なのか?」
ということの方が多いような気がする。
つまりは、過去を考えるうえで、一つ考えることとして。
「自分がその過去に戻った時、今である現在を見ると、どうなるだろう?」
ということを、さくらは考えるようにしている。
「こんな発想をする人なんて、そうはいないだろう」
とさくらは考えたのだ。
そもそも、さくらは性格的に、
「ついつい、人と自分とを比較してみてしまうところがある」
という考え方をしていた。
それは、今まで付き合ってきた人には、あまり見られない性格で、しかも、こんな性格を、
「自分の短所だ」
とさくらは自覚しているので、
「まわりからは、嫌な目で見られていたのではないか?」
と考えるのだった。
「楽しいと思うことは、無数にあったような気がする。しかし、辛いことは、そんなにあったわけではないが、その分、結構重たかったようなんだよな」
と、さくらは感じたのだ。
楽しいことが多かったのは、
「いろいろなシチュエーションでも、立場上でも、その時々で楽しいことは必須であったように思うので、それは、恵まれているような気がする」
というものであった。
しかし、逆に、
「辛かったことというと、ある一定のことに限られているような気がするんだよな」
ということであった。
辛かったことというのは、中学の頃から書き始めた小説のことであった。
小説を書き始めた頃は、まわりでも結構書いている人が多かった。世間でも、
「小説を書くという趣味はトレンドだ」
と言われていた。
「ひょっとすると、小説家になるには、一番絶好の機会だったのかも知れない」
という時期だったのだ。
確かに、
「猫も杓子も小説家を目指す」
という人が多かった。
なぜかというと、
「書籍化するチャンスがあった」
という時代だった。
と言っても、別にプロになれるわけではない。
しかも、本を出すといっても、半分は、自分の手出しだったのだ。
一種の、
「自費出版」
であるが、そのかわり、出版社が、認めた作品には、
「協力出版という形で、費用の半分を持つ」
ということだったのだ。
「企画出版」
という、
「出版社全額負担」
と呼ばれるものもあるが、それこそ、
「宝くじに当たるようなものだ」
ということは自覚していた。
だから、全額負担など、最初から求めてはいない。
「とにかく、どんな形でも本にして、何とか本屋に置いてもらえれば、著名な人の目に触れることもあるだろう」
という、ある意味、
「他力本願」
というところであろう。
そんなことを考えていると、
「小説を出版するということで、作家への近道になるのであれば、それならば、お金ももったいなくない」
と考える人もいるだろう。
ただ、中には、
「借金をしてでも」
という人も少なくない。
ひどい出版社になると、素人作家が悩んでいる時に、背中を押す形なのか、
「借金をしてでも、本を出す人が多い」
ということを言って、悩んでいる相手に爆弾を投じる輩もいるだろう。
だが、少しでも、常識をわきまえている人は、そんな口車には乗らない。
「最初から、借金ありきで話をしてくる相手は、こちらのことを一切考えていないことの表れだ」
と感じ、そんなやつには、すぐに見切りをつけることだろう。
確かに、借金をしてでも、本を出せば、若干の一縷の望みを得ることができるだろう。
しかし、それを客の前で口にするということは、
「最初から、発行した本を売ろうという意識がない」
ということの現れではないだろうか。
「著名人の目に触れるかも知れない。何もしなければ、何も生まれない」
ということを前提として話をしているはずなのに、途中から、そのことを一切言わずに、金の算段だけを始めるというのは、
「胡散臭い」
と言っても過言ではないだろう。
一度そう思うと、それまで熱があっただけに、冷め方も急激である。冷めてしまうと、もう元には戻らない。
それでも、相手に礼儀を示していると、相手が今度は露骨になってくる。
「いやぁ、もう少し企画出版に対して、頑張ってみようと思います」
と社交辞令的にいう。
その時にはすでに、相手の下心も分かっているので、何を言われても、心が動くわけなどないと思うと、
「それは残念ですね」
と言いながら、次作の時にも、やはりお約束のように、
「協力出版」
という見積りだった。
「今度は何を言い出すんだろう?」
ち思って見ていると、
「今までは、私の推薦があることで、あなたの作品を優先的に、出版会議に掛けて、協力出版という形に持っていくようにしていたんですが、それも今回は最後です」
と言い出した。
こっちからすれば、
「ほら来た」
と思う。
相手はきっと、こちらが、ビビッて、
「そんなこと言わないでください」
と言って困ってくるのをいいことに、もっと、
「押してこよう」
と思うだろう。
しかし、ここまでくると、相手はもう、
「見切りをつけている」
と言ってもいいかも知れない。
なぜなら、
「これでダメなら、他の客を攻める方が効率的だ」
と思うからだろう。
つまり、名実ともに、
「見切りをつける」
ということである。
しかも、この言い方はさすが、最後通牒で、
「ダメならダメで仕方がない」
と思っているからであろうか。言い方が強気である。
しかし、この言い方は、割り切って聴いた人には、
「何とも茶番な」
と感じることだろう。
「私の力で出版会議に」
と言っているということは、裏を返せば何を言っているのかというと、
「あなたの作品は、本当は、どうでもいい作品なんだけど、私の力があるから、出版会議にも掛けられるんだ。だから、出版するなら今しかない」
と言いたいのだろう。
作者としては、これほど屈辱的なことはない。相手に対して、
「あなたの作品は、優秀だから」
と言っておいて、かたや、
「私の力で出版会議に推挙することで、虚力出版を勝ち取った」
と言っているわけだから、
「お前の作品は、橋にも棒にもかからない」
と言っているのと同じである。
これほどの屈辱があるものだろうか。
そんなことを言われれば、誰だって、
「誰がお前のいうことなんか聞くか」
と思うのだ。
さくらは、中学生でありながら、何度か、そんな出版社に応募して、いつも、
「協力出版」
であった。
どんなことを言われるかということも分かっていたつもりであり、実際に、、想像していたようなことを言われると、
「ああ、どうせそうなんだ」
と割り切ってしまった。