遅れてきたオンナ
「好きになられたから好きになる」
ということでしか、恋愛経験をしたことがなかっただけに、
「人を本当に好きになれることがあるのかしら?」
と考えるようになったのだ。
確かに、本当に好きになった相手というのが、いたのかどうか、自分でも分からない。
付き合った人の中には、少なくともいなかった。いたら、別れる時に、もう少しつらい気持ちになるだろうからである。
別れる時、あんなにアッサリしていたのは、拍子抜けでもあったが、人から聞く、
「失恋」
というものと、明らかな隔たりがあるということを、どう考えれば、よかったのだろうか?
そんなことを考えていると、
「好きになる人って、私にとって、どういう人だったのかしらね?」
と思えてならなかった。
そういう意味で、
「告白したい」
と感じた男性に告白する時は、怖いという思いももちろんあったが、それを含めても、自分にとっての初体験にワクワクした気持ちになったというのも、正直な気持ちだったに違いない。
告白すると、相手は少し驚いたようだったが、しばらくしてから彼が、
「俺もあの時、いずれ告白したいなって思ってたんだよ。君からしてくれて嬉しいな」
と言っていた。
「じゃあ、もし、私が告白しなかったら、あなたは、私への告白を諦めたと思う」
と聞くと、
「それは絶対にない。最初に感じていた告白とシチュエーションは、変わったかも知れないけど、どこかで必ず告白をするつもりだったからね。でも、その時のタイミングによって、雰囲気も喋る言葉も変わっていたに違いないと思うのさ」
と彼が言った。
「そうなの? 私嬉しいわ」
と言って、さくらは、正直嬉しく感じたのだった。
「ああ、こういうのを、恋愛というのかしら?」
とさくらは思った。
自分の気持ちをハッキリと口に出して言えるというのが、これほど爽快なものだとは思わなかった。
「相手と本音で話ができる」
ということを感じたことのなかったさくらだったので、それが、同性であっても異性であっても嬉しかったのだが、相手が、
「好きになった人だ」
ということであれば、これほど感無量なことはない。
「人を好きになるって、こんなにも素晴らしいことなんだ」
とさくらは感じたのだ。
「そんな幸せな時期が、永遠に続いてほしい」
と思っていた。
しかし、そんなことがないのが、人生だということなのだろうか?
何がうまくいかなくなる原因だったのか分からないが、急に喧嘩が増えてきた。そして、同時に今まで見えなかった相手の悪いところが、どんどん見えてくる。
「ああ、音を立てて崩れていく」
という思いが、さくらの中にあった。
そして、そんな崩れを感じてくると、必ずどこかに、
「もう修復できないところまで来たんだ」
と思う時が必ずあるようだった。
しかし、それは、自分が感じた時であり、その時はすでに遅く、場合によっては、少しでも変調を感じた時には、もうすでに、取り返しがつかないというところまで来ているということも、往々にしてあったりするものだった。
別れる時に、厄介な別れ方をすることはなかった。それはお互いに性格を分かっていたことで、避けることができた原因でもあるだろう。
それを感じていると、さくらにとって、恋愛は、勉強のように思えてきた。
他の人のように、どっぷりとのめり込むという意識がなかった。
「最初から、逃げ腰なのではないか?」
と感じていたが、どうもそうではないようだった。
「逃げ腰だったら、最初から、絡んでいかない」
と、そもそも、男性を男性として意識しないだろうと思っていた。
自分は、それができると思っていたのだが、思い過ごしだったのだろうか?
毎年毎年、
「自分は成長しているんだ」
という思いを持ち、
その気持ちに対して。
「信じて疑わない」
という自分を、いじらしく思っていた。
それが思春期における、さくらの
「プライドのようなものだ」
と言ってもいいのではないだろうか。
「思春期がいつからいつまでだったのか?」
と聞かれれば、正直曖昧な気がした。
それは、自分に限らずのことであろうが、ただ、さくらは、分かっている方ではなかっただろうか?
だから、恋愛においても、最初から、そこまで盛り上がっていなかったこともあって、別れても、そこまで尾を引くこともない。人が見れば、
「本当に冷めた性格だわ」
と思われるかも知れないが、
「熱くなることが、そんなにいいことなのかしら?」
と、さすが、冷静沈着と言われるだけの性格だと思えたのだった。
さくらにとって、
「人を好きになるということは、苦しいことだ」
という認識はあった。
「それが、嫉妬によるものなのか?」
あるいは、
「自分の中で相手に対して、心変わりをしないという結界を非常線のように引いてしまったことで、それが足枷のようになってしまっているのではないか?」
と考えるのだが、さくらの中では、
「嫉妬」
であったり、
「心変わりへの恐怖」
というものが、それほどあるとは思えなかった。
だから、逆にいえば、
「熱くなることを知らない」
と言えるのであろう。
熱くなることがないのは、意識の中で、
「熱くなってはいけない」
という思いが忠実に実行されているからなのか、それとも、
「熱くなる」
ということがないわけではなく、
「冷静沈着な性格が、熱さを覆い隠しているからではないか?」
と感じるのであった。
それを思うと、さくらにとって、後者の、
「見かけの、冷静沈着さ」
というものが、どれくらいのものなのかということが、大いに興味を寄せられる気がしたのだった。
さくらは、それだけ、
「自分を知りたい」
と思っているということだった。
趣味の小説
時間というものが、いつも本当に規則的に動いているのかどうか、誰にも分からない。「そう、思わされているだけだ」
ということなのかも知れないが、信憑性という意味でいえば、どちらもハッキリとしていないだけに、あながち、
「間違いだ]
と言えないだろう。
ただ、それが、ほとんどはいつも定期的であって、たまにそうではない時というのがあるのかという感覚と、絶えず、不規則であり、
「時間の感覚というのは、その時に感じたことがすべてなのだ」
ということであれば、
「すべてが正しい」
ともいえるし、逆に、
「すべてが錯覚だ」
ともいえるだろう。
これは、決して、
「間違い」
だとは言えないということだけは、言えると思うのだった。
ただ、確かに時間の感覚は、精神状態によって、大いに違いを感じる。過去の記憶を紐解く時でも、
「思い出した時系列が、明らかに違う」
と感じることも、往々にしてあるようだった。
それを思うと、一口に時間といっても、
「その時に感じているリアルな時間帯」
と、
「過去の時系列」
を考えた時の時間とが、絡み合った時、時間の感覚に不可思議な思いを感じるのだった。
そんな五分間というのが、どれだけのものか、
「辛い時には長く感じられ、楽しい時にはあっという間だ」