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遅れてきたオンナ

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 いわゆる人間の中の欲と呼ばれるものは、
「睡眠、食欲、性欲」
 と言った、基本的ないわゆる、
「生理的、本能的な欲」
 から、
「征服欲、達成欲、承認欲求」
 などと言った、
「心理、社会的な欲」
 まで存在する。
 後者の欲求であれば、身体が、機械であっても、あり得ることであるが、
「生理的な」
 そして、
「本能的な欲」
 というものを、満たすことができるのか? ということである。
 睡眠、食欲などは、人間として、
「それをやっておかないと、翌日に力が出ない」
 ということに繋がるが、機械の身体であれば、消耗はエネルギーだけで、補給さえすれば、半永久的に大丈夫なものだ。
 性欲などは、身体全体で感じるものだったり、身体全体の興奮を、身体の一点に集中させることで得られるものだということであれば、機械の身体に、そのような能力があり、その快感をうまく、脳に伝えることができるのだろうか?
 それができなければ、サイボーグであっても、
「欲求を満たすことはできない」
 という、
「人間としての脳を持っているのであれば、欲求が満たされないことで、どれほどのストレスとなるかということになるのだろう」
 それがサイボーグということになるのだろうが、人間の場合は、欲求もすべて満たすことができる。
 ただ、自分の中に、
「もう一人の自分がいるとすれば」
 ということであれば、どうなるか?
 ということを考えていたが、それが一人ではなく、無数にいると考えると、根本から考え方が変わってきて、逆に、不可解だったことの説明がつくことで、
「今まで、理屈に合わないと思っていたことも、解決される」
 と考えてもいいだろう。
 そんなことを考えていると、
「自分の中に、自分とは違う人がたくさんいる」
 と考えた時、妹というものの存在を考えた。
 これは、宗教的な問題とも絡んでくるのだろうが、
「死んだ人間の魂が、守護霊として、自分の中で生き続けているのではないか?」
 という理屈だった。
 だが、その考え方は、正直、
「現実的ではない」
 と感じたのだが、その理由としては、
「もし、輪廻転生というものが正しいのだとすれば、命の数には限りがある」
 ということになる。
 つまり、
「人間は死んだら、どうなるか?」
 という考え方で、ここからが、宗教がかってくるのだが、一つの考え方として、
「死んだ人間は、神の世界と、人間に生まれ変わることのできる世界と、決して人間に生まれ変わることのできない地獄のような世界の、三つに分かれる」
 というものがある。
 この場合、
「人間に生まれ変われる人の数がどんどん減っていっている」
 ということになる。
 地獄に行って、人間に転生できない人がいっぱいいると考えると、他の動物が人間に生まれ変わることができるという理屈が存在しないと、
「人間の数は、時間とともに、どんどん減っていっている」
 ということになるのだ。
 これはあくまえも、宗教的な一つの考えであるが、ただ、基本的には、どの宗教も似た考えではないかと言えるのはないだろうか?
 それを考えると、
「一人の人間の中に、無数の魂が宿るというのは、現実的な考えではない」
 と言えるだろう。
 ただ、それも、一人の人間に魂が一つと考えた場合であり、このようにたくさんあり、
「決して減るものではない」
 という考えが成り立てば、理論上、考えられないことではないといえるだろう。
 さくらは、自分に妹がいたことを知らなかった。そのことが引っかかっていた。
「ひょっとすると、この世には、存在していたことすら誰にも認知されていない人が結構いたのではないだろうか?」
 ということを考えてみた。
 生まれてからすぐ、一人の人間の身体にたくさんの魂が入り込んで、一人の人間を形成できるだけのものが、時間内に成立できなければ、その後、生きていくことができないということになりはしないか?
 と思うのだった。
 ということになると、
「実際に生まれてくる人の数は分かっているよりも、ずっと少ないのではないか?」
 とも考えられる。
 これは、性教育の範囲であるが、
「精子が卵子に付着して、一つの生命が生まれる」
 というのが、哺乳類の、
「生命の誕生」
 であるが、
 卵子は一つであっても、精子の数は、無数にあるではないか。
 最初の精子が、卵子に入り込むと、そこで卵子は精子の入り口をシャットアウトして、他の無数の精子は、死に耐えてしまうということになる。
 ひょっとすると、その精子が、魂になって彷徨っていると考えれば、理屈に合うのではないだろうか?」
 考えてみれば、卵子一つに対して、精子が無数に使われるのだから、一つを除いて、すべてが、滅んでしまうと考えると、理不尽な気がしているのだ。
 しかし、それら精子も、
「浮かばれることがある」
 ということになれば、理屈的に合うのではないか?
 つまりは、
「生命が、輪廻転生するというのであれば、何らムダなものはないのではないか?」
 と考えられるからである。
 足りないところを補って、一つになるのが、人間にとっての性欲だと考えれば、この理屈もまんざらでたらめではないと思えてくるのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「人間だけに限らず動物というのは、誰から教えられたわけでもないのに、危険なものなどを最初から分かっている」
 と言われるが、それを、理解しようとすると、
「遺伝子」
 というもので考えるのではないだろうか?
 親や先祖から受け継がれてきた、身体の中に流れる血液、それが遺伝子となって、子々孫々にまで影響してくるというものである。
 遺伝子だけではなく、魂というものも、同じように受け継がれていくのだとすれば、子供が生まれた時、すでに魂がいくつも存在し、それが遺伝子のように受け継がれたものだとすれば、
「性癖であったり、性格的なものが受け継がれていたのは、遺伝子だけではなく、魂にもその力が及んでいるのではないか?」
と考えるのだった。
 そういう意味では、この世に存在するかも知れない、
「もう一人の自分」
 というものが、「ドッペルゲンガーであったり、
「五分前のオンナ」
 という発想であったりというものが、
「無数に存在する魂」
 というものの終結であるとすれば、あり得ないこともないだろう。
 つまり、本当の、
「もう一人の自分」
 ではなく、
「似て非なる者」
 であり、
「限りなく自分に近い他人」
 だといえるのではないだろうか?
 それが、
「この世に三人はいる」
 と言われる、
「自分に似た人間」
 だということになれば、
「ドッペルゲンガー」
 のような、真性な、
「もう一人の自分」
 というものは存在しないのではないか?
 と言えるのではないだろうか?
 今まで、
「もう一人の自分」
 の存在をずっと肯定してきた、さくらの考え方であったが、よくよく考えてみると、
「もう一人の自分」
 という考えを全面否定している自分がいるのだ。
 それを考えると、さくらというのは、
「一周回って、この結論に行き着いた」
 と考えるようになったのだ。
 まさに、
「輪廻転生」
作品名:遅れてきたオンナ 作家名:森本晃次