遅れてきたオンナ
という発想を思いついたのは、元々、
「自分には、妹がいた」
という話を、以前母親から聞かされたことが最初だった。
母親から、小学生の時、いきなり聞かされたが、その時は、
「ふーん」
という程度で、あまり意識をしていなかったのだが、中学に入って小説を書くようになり、この
「五分前のオンナ」
という発想を抱くようになってから、いろいろ考えるようになった。
「妹がいた」
ということが気になるわけではなく、
「妹って、どんな感じなんだろう?」
という、
「もう少し、遠くから見たような感覚で、客観的だった」
と言っていいのかも知れない。
しかし、母親から聞いた話としては、
「生まれてからすぐに、亡くなった」
ということだけしか聞かなかったので、それ以上詮索しても、何も出てくるわけはないということである。
しかし、それを考えると、
「物心つく前に亡くなっていたんだ」
ということであろう。
さくらの記憶の中に、妹という意識はまったくなかった。ただ、生まれてからすぐになくなるケースというのは、昔ほどひどくはないが、まったくないわけではないので、普通にあることだったのだろう。
母親から妹の話を聴かされてから、何か不可思議な気持ちに陥っていた。
「私の中に、もう一人誰かがいる」
という感覚が芽生えたようだった。
それが、明らかに自分ではないような気がした。その時に思い出したのが、
「ジキルとハイド」
の話だった。
「自分の中にある、もう一つの人格が、何かの拍子に表に出てくるという話で、自分が夢を見ている、要するに眠っている時に表に出てきて、自分の知らない間に悪事を働く」
というお話で、いわゆる、人間がもっているであろう、
「二重人格性」
というものを、叙述に描き出したお話だったのだ。
さくらは、その時初めて、
「自分の中にいる、もう一人の性格」
というものを思い知った気がした。
その性格がどういうものなのか、まったく分からない。
「ひょっとすると、眠っていて夢を見ている時しか、出てこない。つまり、夢の中にしか出てくることができない存在なのではないか?」
と感じたのだった。
そんな自分のことを、さくらは、
「ひょっとすると、もう一人の自分が、その中にいる、さらにもう一人の自分の存在を意識しているのかも知れない」
と思った。
「まるでマトリョシカ人形のようではないか?」
と、
「人形を開けるとその中から人形が出てきて、さらにそれを開けると……」
ということで、
「半永久的に続いていくものだ」
ということを分かっているのではないだろうか?
そんなマトリョシカ人形の永久性というよりも、自分の中のもう一人の自分の、さらに中にあるものだから、それは、自分とは無関係なものだと思いたいという感覚があったのだ。
そんな中において、妹の存在を知ると、
「自分の中にいる、自分ではない、もう一人の自分は、この妹ではないか?」
と思うようになった。
この発想は、小説などでは、結構定番なものなのかも知れないが、実際には、
「そんなことはないだろう。あくまでも、小説のネタでしかないんじゃないだろうか?」
と思っていたのだ。
しかし、そんな定番なものでも、
「実際に自分の身に置き換えて考えてみると、結構大変な発想なのではないだろうか?」
と考えてみると、
「夢というのも、バカにできたものではない」
と感じてくるのだった。
「夢の内容を覚えていないというのは、自分の中にいる自分が見た夢を客観的な、さらにその後ろを見ているのかも知れない」
という思いからであった。
そこで考えたのは、
「自分の中に、もう一人の自分がいる」
ということの派生として、
「そのもう一人の自分というのは、一人や二人ではなく、無数にいるのかも知れない」
という考えであった。
「その無数にいる自分の中の性格が、それぞれにいい影響を与えるから、他の動物にはない、知恵であったり、知能というものを持っている」
という考え方であった。
もっと言えば、
「フレーム問題の解決を人間だけができる」
ということの理屈になるのかも知れないと思うのだった。
ここでいう、
「フレーム問題」
というのは、
「人間が、一瞬一瞬の間に判断すべきことというのは、無限に広がっている」
と言えるだろう。
もちろん、他の動物も、自分で判断するということもあるのだが、それはあくまでも、人間にはない、
「本能の赴くまま」
ということになるのではないだろうか?
人間は、そこまで本能というものが、鋭くないので、
「人間特有の何かの力が働いている」
と言われているが、それが何であるか、解明できているわけではなかった。
基本的にフレーム問題というものの考え方は、ロボット開発にかかわるもので、その対象は、
「人工知能」
つまりは、
「AI」
というものである。
そんな中において、人間が刻一刻と変わっていく目の前のことに対して、適切な判断ができるのは、
「無数の頭脳が頭にあり、それをコントロールできる脳が一つあることで、うまく引き出しているのではないか?」
という思いだった。
コンピュータは、一つの脳ではあるが、その中に、無数といってもいいだけの
「考える力」
というものがあることで、答えを導きだしている。
ただ、それを正確にコントロールできるものがないのだ。それを人間が担っていることで、初めて、コンピュータは作動できるのだ。
そう考えると、
「アンドロイドのように、人間が、脳を作るのではダメだが、サイボーグのように、脳は人間のものを移植し、身体だけをロボットにしてしまえば、コントロールしてくれるということになるのではないか?」
という考えであった。
アンドロイド、いわゆる、
「人造人間」
と言われるものであれば、こちらの問題となるものだ。
逆にサイボーグ、いわゆる、
「改造人間」
と呼ばれるものの中で、
「脳の部分は、人間のものをそのまま使う」
ということであれば、問題はないのだが、サイボーグであっても、アンドロイドであっても、身体の機能すべてをコントロールする脳が、人間からの移植でなければ、この問題は永遠に続くものである。
もし、サイボーグが、
「脳の移植」
ということになるのであれば、問題としては、
「生命の維持」
ということになるのではないだろうか?
昔からいわれている、
「不老不死」
という問題であるが、
「身体だけを機械にしてしまい、脳を移植する形にすれば、人間は、永遠に生き続けられる」
ということになるが、そのかわり、犠牲とするものがたくさん出てくることであろう。
というのは、人間が持っている、
「欲」
というものに対して、満たされることはないだろう。
何と言っても、
「身体は機械」
なのだからである。
もちろん、すべてが、人間という生き物に対しての知識しかないので、
「人間世界がすべてだ」
という発想になるのだろうが、
考えてみれば、
「人間と他の動物との違いは、欲があるかないかと、いうことではないのだろうか?」
と考える。