遅れてきたオンナ
と言ってもいいだろう。
考え方が、カオスとなっているに違いない。
妹がいたという話を聴いた時は、それに対してあまり、深く感じることはなかったが、小説のアイデアを考えた時の方が、妹に対しての思いが強かった。
さくらは、一人っ子だったので、本当であれば、
「兄弟がいればよかったな」
と思うのではないかと思われがちだが、そう感じたことは、ほとんどなかった。
むしろ、
「一人の方がいいな」
と思うようになっていたのだ。
というのも、結構、現実的なところがあるので、
「兄弟いれば、人数分で分けなければいけないので、一人の方がいい」
と思っていたのだ。
一人っ子だからなのか、まわりと競争したりするのは、あまり好きではない。
「平和主義なんだね」
と言われることはあったが、別に平和主義というわけではなく、
「ただ、人と争うのが嫌いだ」
というだけのことだった。
要するに、
「煩わしいことが嫌いで、ものぐさなところがある」
と言ってもいいだろう。
しかし、そんなさくらだったが、急に忘れた頃に、人と敵対する気分になることがあった。
「勧善懲悪」
なところがあるようで、
「理不尽なことや、いい加減なことをする連中は、許してはおけない」
というところがあるのだ。
そんな時は、露骨なほどに、相手に敵対心をむき出しにすることがある。
その思いが、ものぐさな時と比較すれば、
「ギャップ」
という言葉で言い表すには、極端な気がするほどだった。
そんなさくらが、敵対する時というのは、あまり自分のことで怒る時ではない。まわりの誰か、自分の関係がある誰かに対して、攻撃された場合に怒るのだ。
自分ではないことが、
「勧善懲悪に対しての、大義名分」
とでもいえばいいのだろうか。
だから、それが、
「自分の好きになった男性に対して」
であったり、
「家族などの、近しい相手に対して」
だったりすると、敵対心をむき出しにすることがあるのだ。
人によっては、そういう近しい人間を大切にしている人に対して、向こうは向こうで敵対心をあらわにする人もいたりする。
親や家族から、大切にされていなかったり、事情で、親戚をたらいまわしにされ、
「血のつながりなんて、一体何なんだ?」
としか思っていない人もいるだろう。
無理もないことであり、お互いに仕方のないことなので、別に敵対する必要などないのだろうが、それでも敵対しなければいけないその気持ちは、無理なこともたくさんあるのではないだろうか?
だが、さくらは、次第にそんな人の気持ちが分かるようになってきて、最後には仲良くなるのだが、その時には、
「あの人たちの気持ちは、私にはよくわかる」
と感じるのだ。
もちろん、家族や親せきから、ひどい目に遭ったわけではないが、気持ちが分かるというのは、本当のようだ。
疑り深い連中でも、さくらと一緒にいると、皆、
「心が通じ合っているように思う」
と感じているようだ。
それを思うと、さくらも、どんどん歩み寄ってくる。
「きっとさくらの勧善懲悪の気持ちが、相手に伝わるかななのではないだろうか?」
と感じるのだった。
そんなさくらは、勧善懲悪という気持ちを持つことで、
「反骨精神」
が結構大げさになってきた。
特に、自分に敵対する相手に関しては、露骨に嫌な顔をするようになり、
「下手をすれば、そのうちに、嫌がらせをするようになるのではないか?」
とすら思うようになってきた。
そういう意味もあってか、今回の小説に出てくる、二人のオンナには、そんな起伏の激しい感情を持たせないようにしようと思った。それは、男性に対しても同じで、三人とも、感情を表に出さないタイプを演出することになったのである。
しかし、まったく感情を示さないのであれば、何も起こることはなく、話にならないと言ってもいい。だから、どちらかの女に、感情を表に出さないが、その気持ちを内部にためて、その分を、もう一人の女が背負うことになるという物語である。
喜怒哀楽すべてを、
「五分後のオンナ」
に預けることになると、五分後のオンナが、そのうちに、五分前のオンナのことが気になり始めたのだ。
どこか同情的なところがあるのだが、その気持ちが、
「五分後のオンナ」
の性格だったのだ。
「私がすべてを背負った形になってしまって、そのせいで、自分が元々どんな性格だったのかということを忘れてしまった」
と思っていた。
彼女は、自分たちのような影と表を持った人間は、
「自分たちの性格は、自分で熟知しているものだ」
と思っていたのだ。
彼女たちのような
「五分」
などという時間を境にした表と影のオンナは、一定数いるのだった。
そして、
「表と影」
という存在を持った人間は、女性しかいない。
それを、自分たちだけの間で、了承しているというのだった。
彼女たちは、自分たちの世界、いわゆる次元があるわけではなく、他の人間と同じ世界に生きている。しかし、彼女らを見ることができるのは、限られた人間だけで、彼女たちのような存在の人間のことを、口外してはいけないということになっている。
いわゆる、
「見るなのタブー」
の類である。
大団円
そんな世界をイメージしていると、
「まるで、この世の四次元の世界を、創造したかのような感じだ」
と言えるのではないだろうか?
そういう意味では、
「同じ次元なのに、限りなく、違う次元に近い」
という感覚なのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「五分間」
という時間は、こちらでいう時間であって、本当は、
「数年くらいに長いものであったり、数秒くらいの短いものなのかも知れない」
と、自分が感じている世界の歪みというものを想像すると、まったく違った世界が広がるわけではなく、
「酷似した世界」
における、
「歪な世界」
という感覚が存在する世界ではないだろうか?
「無数の魂」
という発想も、
「酷似した世界の中の歪な世界の中に放り込まれると、どこか、距離や時間に、この世界との共通点があるのではないか?」
と感じるのだった。
そんな中にいて、作者であるさくらに、
「妹がいた」
という事実が、
「この小説にいかに影響しているか?」
ということになるのだろうが、さくらは、この
「五分前のオンナ」
を姉と位置づけ、
「五分後のオンナ」
を妹と位置付けるつもりだったが、物語をつづっていくうちに、
「どっちがどっちなのか、分からなくなっていた」
ということでもあった。
話を続けていくうちに、
「二人は姉妹だ」
と位置付けるところまではよかったのだが、書いていくうちに、分からなくなってきたのだ。
メモにでも書いておけばいいのだろうが、
「こんな簡単なことを書かなくたって、混乱するわけはない」
と思っていたのか、それとも、
「忘れるはずなどない」
という自惚れだったのか、混乱してしまったのだ。
そんなことをしていると、小説が途中で進まなくなり、
「いかがしたものか?」
と悩むようになった。
そこで考えたのが、