遅れてきたオンナ
「数学を題材にした、ミステリー小説」
というものを書いている人がいて、友達の勧めもあって読んでみると、
「結構面白い」
という内容だった。
「数学とミステリー」
というものは、パッと見で、どこに接点があるのか分からないが、そもそも、ミステリーというのは、トリック自体が、数学でいうところの、
「公式」
のようなものではないか?
たとえば、昔からよくあるトリックの中で、
「死体損壊トリック」
いわゆる、
「顔のない死体のトリック」
と言われるものに、公式が存在すると言われている。
その公式というのは、
「被害者と加害者が入れ替わる」
というものであった。
そのために、
「被害者の身元を分からなくすることで、被害者が誰か特定できない」
であろう。
ただ、
「被害者と加害者のどちらかであるという場合も、えてしてあるようで、その場合は、どっちがどっちなのかということを、警察に判断させるという意図がある」
というものだ。
それによって、加害者と被害者を間違えれば、加害者が被害者ということになり、指名手配をしたりして、犯人捜しをしたとしても、見つかるわけはない。なぜなら、すでに、この世の人ではないからだ。
警察というところは、
「加害者、いわゆる容疑者しか探そうとしない。死んだと思われている人間が生きていたとしても、意識することはない」
と言えるだろう。
もっとも、一時期だけ隠れていれば、すぐに事件は迷宮入りということになり、
「意識が、記憶の大容量の中に埋もれてしまい、もし犯人が、大手を振って歩いていても、誰も気にする人はいない」
というわけだ。
それが、
「ほとぼりが冷めた」
ということなのだろう。
もし、誰かが意識をしたとしても、
「ただ、似ている」
というだけでは警察は動かないだろう。
何かの事件があって、そのあたりの指紋を調べた時、
「偶然、指紋が一致したのが、被害者と思われていた人物だ」
ということになれば、警察も放っておくようなことはしないだろうが、そんなものは、よほどの低い確率だといえるのではないだろうか。
今の時代は、
「時効というものは、殺人などの凶悪犯罪においては、撤廃された」
ということなので、犯人側からすれば、
「逃げ隠れするにも、限界がある」
ということで、今の時代ではうまくいかない犯罪の一つだろう。
そもそも、科学技術が発展していることで、
「死体損壊トリック」
というもの自体、成立しなくなっている。
下手をすれば、
「白骨になっていたとしても、被害者の身元が分かるかも知れない」
というレベルなのだろう。
それを思うと、事件というものが成立しないという犯罪トリックも結構ありそうで、
「ミステリーを書くというのも、難しい時代になってきた」
と言えるだろう。
特にトリックなるものは、ほとんど出尽くしていて、
「後はバリエーションの問題だ」
と言われているので、それも致し方ないだろう。
中には、
「探偵小説くらいでしか、そんな犯罪は不可能だ」
と言われる、犯罪の種類もあるくらいで、
「理論的に」
あるいは、
「実質的に」
とそれぞれで、今は不可能と言われる犯罪の種類もあることだろう。
ただ、それを解決してくれるものがあるとすれば、それが、
「数学」
という考え方なのではないだろうか?
「数学を使ったミステリー」
というものが流行っていると思い、実際に見た時、
「ああ、確かにそうだな」
と感じたものだった。
最初は、ドラマで見て、原作本を読んでみたくなった。
もうこの時代になると、
「原作が小説」
というのは、なかなかなく、
「脚本家のオリジナル」
であったり、
「マンガが原作」
というものが、ほとんどの時代になっていた。
前述の、
「ライトノベル」
という発想が、唯一、原作があってのドラマということになるのだろうが、それも、途中にアニメやゲームを挟むことになるだろう。
しかし、この数学物は、原作がダイレクトに小説で、逆に、このような、
「理論的ミステリー」
のようなジャンルのものは、マンガにしてしまうと面白くない。
要するに、マンガに向いていない作品だといってもいいだろう。
そんなことを考えてみると、
「小説が原作のドラマは面白い」
と改めて感じさせられた。
ドラマを見てから小説を読んでみようと思ったのは、逆をすると、
「ドラマを見た時、失望することだろう」
と思ったからだ。
「先に映像作品をみて、小説を読むのであれば、そこに、想像力というものが湧いてきて、小説がさらに楽しく読める」
と言えるだろう。
しかし、最初に原作を読んでいると自分の中で勝手なイメージができてしまい、それが映像化作品とかけ離れたものであれば、それだけ、
「陳腐な作品だ」
と感じるようになることだろう。
それを思うと、
「映像があるのであれば、先に映像を見ておく」
というようにしているのだった。
だから、一度読んだ作品が原作となって、映像化された場合、よほど興味のある作品以外は見ようとは思わない。
興味のある作品でも、
「いかに、イメージから遠いのか?」
ということを最初から考えておかなければ、面白くはないだろうと思うのだ。
そんなことを考えていると、
「原作がいかに素晴らしいかということを、再認識できれば最高だよな」
と思うのだった。
「いずれ、小説家になったあかつきには、原作を元に、映像化させたい」
と思っている。
「どこまで、自分の作品に忠実に、スタッフがやってくれるか?」
ということに興味があるといっても、過言ではない。
だが、結局小説家になることはなかったので、それこそ、
「机上の空論」
となった。
ただ、今後の将来において、
「小説家になる」
ということを断念したわけではない。
今でも、小説は書き続けていて、プロになることを、完全に諦めたわけではない。
そういう意味でも、
「まだまだこれから」
ということであり、時々、昔書いた小説を読み返してみることも多かった。
その中でも、自分で群を抜いて、
「すごい作品を書いていたんだ」
と思わせたのが、この、
「五分前」
というのをモチーフにした小説だった。
二十歳になっても、まだ色褪せずに見えるこの小説を、再度加筆してみようということも考えていた。
と言って、大幅に書き直すというつもりはない。
どちらかというと、
「短い小説を、長編くらいに引き延ばしてみたいな」
という思いからだった。
すでに、
「高校生の途中くらいから、長編小説というものを書けるようになってきた」
と感じてきたのだったが、それが、例の小説を書いてから少ししてからだったということを、さくら本人も覚えていないようだった。
それを考えると、
「意外と過去の記憶も、ハッキリと覚えているものと、曖昧なものが違って感じられるもののようだ」
と感じたのだが、それが、
「時系列の曖昧さ」
から来るということを、後になって感じたのだった。
妹
さくらが、
「五分前のオンナ」