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遅れてきたオンナ

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 この話は小説を書き始めてから、まだ、2年目くらいに書いた作品だった。それまでに、十数作品を書いてきたが、自分としては、
「まだまだこれから」
 という思いはあった。
 一つは、
「まだまだ若いんだし、成長もしている。経験値はこれからどんどん増してくる」
 という思いがあったのだ。
 さらに、自分が、
「今はまだ成長期」
 という感情が強かった。
「思春期を少し通り過ぎたくらいで、まだまだ成長期だ」
 と思っているのも、間違いではないだろう。
「成長していくためのステップアップが、小説執筆だ」
 と思っていた時期だった。
 まさか、就職に、
「保険の外交員」
 という職業を選ぶなどと思っていなかった時期だったので、就職ということもほとんど考えたことのなかった時期だった。
 小説を書いていて、その頃は、まだプロットもまともに書けない時期だったような気がする。
 ちょっと思いついただけで、書き始めて、書いていきながら、話を膨らませる。
 ただ、そういう書き方をしていると、最後でまとめることが難しくなってしまう。その頃はまだ、そんな時期だったのではないだろうか?
「小説は、気に入る気に入らないを別にして、最後まで書き切る」
 ということは、ハウツー本であったり、ネットにおける、
「小説の書き方」
 など検索にて出てきた記事を読んでいると、たいてい、それは書いている。
「書き始めなければ、何も始まらないのと同じで、書き切ることが、最初緒ステップアップになるのだ」
 というものだ。
 ハウツー本や、ネットでの検索記事にしても、さくらは、
「どうも胡散臭い」
 と思っていた。
 というのも、
「言っていることに間違いはないのだが、あまりにも当たり前のことすぎるというのと、人それぞれで微妙に違う」
 ということを分かっているのだから、どうにも、見ていて、
「無難にまとめられている」
 ということで、結局は、
「自分に必要な部分だけを取り入れればいい」
 と思うようになった。
 ただ、それも、ある程度の経験をしてではないと、
「何が必要なのか?」
 ということが分かるわけではない。
 それを思うと考えさせられるところは大きいというものだ。
 元々、小説を書けるようになったのは、
「最後まで書き切る」
 というステップを乗り切ることができたからだと思っている。
 二十歳になった今でも、仕事の時間以外では、できるだけ小説を書こうと思っているが、それができない時は、どうしても存在する。
 そんな時、言い知れぬ、不安や苛立ちを覚えることがあるのだが、実際に、どのような苛立ちなのかということが分かっていなかったので、
「私はまだまだ未熟なのかな?」
 と思っていた。
 ただ、それは、小説を書き始めた頃の気持ちとは、違ったものであって、最初に小説を書き始めた頃は、自分なりに、切磋琢磨しているつもりだったが、試行錯誤が空回りしているのも感じていたのだった。
 やはり、ハウツー本などに書いていた通り、一番の難関は、
「書き上げる」
 ことだったのだ。
 書きたいという意欲は、結構あったと思う。
 そうでなければ、すぐに諦めてしまっていたことだろう。
 小説を書けない理由に、
「書き切ることができない」
 という思いがあるのだが、なぜ、そう思うのかということを自分なりに考えてみたが、後から思えば、
「こんな当たり前のこと」
 と思えるくらいだったのだが、その時は、そこまで気づくのに、思ったよりも時間が掛かったのだ。
 なぜ、
「こんな当たり前のこと」
 と感じたのかというと、小説を書けない時期に、自分でもウスウス感じていることだったからで、その思いが自分をいかに、
「感じないかのようにしていた」
 のかということに気付かなかったのだ。
 何に気付かなかったのかというと、
「自分のような素人に小説など書けるわけがない」
 という思いだった。
 この思いは、心の奥深いところにあったのだろう。
 思いとしては、それほど大きなものではなかったのだが、自分の中で、
「中途半端」
 に感じたのだ。
 それが、思ったよりも深いところにあって、直接感じているわけではないということを失念していたからだろう。
 分かっていたつもりでも、あくまでも、感じることが、自分にとって、いかに厳しいことなのかということを感じさせるものだったのだ。
 ただ、厳しいということが分かっているくせに、実際には、どこまで厳しいと言えばいいのかということが分かっていない。分かろうにも、深すぎて遠い感覚なのだ。
「小説というものが、どれほど自分にとって、遠い存在だったということか?」
 ということを考える。
 これは、小説だけに限ったことではなく、芸術的なものすべてにいえることだった。
 音楽にしても、図画工作にしても、小学生の頃で挫折していた。
「こんなの、勉強でも何でもないんだから、できなくたっていいんだ」
 という気持ちが、あきらめの境地だったに違いない。
 音楽に関しては、楽器を演奏するという以前に、楽譜というものに対して、何か拒絶反応のようなものがあった。
 中学に入った時に感じた、
「英語に対しての、拒絶反応」
 と似たものがあったのだ。
 そのくせ、小学生の頃から、算数は好きだった。
 ただ、中学に入って数学になると、急に興味が失せたのも、事実であり、小学生の頃の算数というものが、
「設問に対して答えがあるわけだが、答えというよりも、その答えを導き出すための、プロセスが大切だ」
 ということが、算数を好きだったという理由だと思っていた。
 それを感じることができたのは、数学を習うようになってからのことで、
「数学というものは、問題に対して、公式というものに当てはめることで、導き出された答えが大切だ」
 というものである。
 つまりは、
「いかに公式を正しく使って答えを導き出すか?」
 ということであった。
 小学生の頃の算数は、
「どんな解き方でもいいから、答えを導くためのプロセスが、間違っていなければいい」
 というものだった。
 実際に、算数の問題に対しての答えには、いくつかの解き方が存在していた。しかし、それを数学の、代数というジャンルに当てはめると、どんな解き方でも、結局は途中から一緒になるわけで、算数の問題を解く時の、
「一種の醍醐味」
 というものを味わうことはできなかったのであろう。
 そんな時期が数学を習い始めてからはあったので、
「下手をすれば、数学が嫌いになっていたかも知れない」
 と思っていたところに出てきたのが、
「中学時代の数学のヤマ場」
 と言ってもいいくらいの、
「因数分解」
 というものが面白かったことで、また数学への興味を持続することができたのだった。
 だが、
「因数分解というものの、何が面白いのか?」
 ということを聞かれたとしても、それが何なのかということを、ハッキリと言い切ることはできなかった。
 言いきれたとしても、その答えがどこにあるのかということは、自分でもよく分かっていない。
 因数分解のおかげで、数学に興味を失わなかったということもあって、ちょうど、中学時代の頃に、友達が話題にしていた本の中で、
作品名:遅れてきたオンナ 作家名:森本晃次