遅れてきたオンナ
そういえば、男は、二人を同じ感覚で見ているのかどうか? そのことが本当は一番きになっているはずなのに、気付かなかったように感じるのは、
「敢えて、考えないようにしている」
ということであろうか?
そんなことを考えていると、小説を書いていて。
「一体誰が主人公なんだろうか?」
と感じるようになるのだ。
今のところ、確かに誰が主人公なのか、分からないといってもいいだろう。
この小説の主人公というか、登場人物は、基本的に3人だけである。
「五分前の女性」
「五分後の女性」
「主人公と思しき男性」
の3人である。
この3人がいれば、小説は完成するのだ。
主人公としての、3人で考えられることとして、
「まず、それぞれのオンナは、それぞれ相手の存在を知っている」
ということ、さらに、
「ただし、タイムパラドックスの影響なのか、実際に逢ったことはない。会うということは、その条件に合わないわけで、ドッペルゲンガーの影響かも知れないとも、考えられるのだ」
ということである。
もう一つ気になるのは、もしこれがドッペルゲンガーだということになれば、
「どちらのオンナが、本人なんだ?」
ということになるのだろう。
ドッペルゲンガーの場合は、明らかに本物がいて、もう一人は隠れていて、
「影のような存在」
ではないかと考えるのだ。
それを思うと、
「どうも、この物語の二人の女性は、ドッペルゲンガーではないようだ」
と言えるのではないだろうか?
「しかし、どちらかを主人公にすれば、どちらかが影である」
ということを考えると、
「もう一人の自分というのは、相手の男が決めるということになるのだろうか?」
と考える。
もし、男が、
「どちらか一人を選ぶと、もう一人が邪魔になるので、消したいと思ったとすればどうだろうか?」
そんなことを考える男ではないとは思うが、男には嫉妬というものがあり、オンナにもある。
「その嫉妬心が歪んでくると、二人とも、もう一人のオンナの存在が、真剣じゃまだと思うのではないか?」
と感じるのだった。
嫉妬を感じるというのは、この三人の関係においては、少々おかしな感じがする。
仲間外れにされた女が嫉妬を感じるというのであれば、分からなくもないのだが、そうではないのだ。
嫉妬というのは、自分にとって、ひょっとすると、
「生きるための糧」
と言えるのかも知れない。
嫉妬が、生きがいになるということは、ある意味、それだけ辛いということなのかも知れないし、
「自分のことを分かっているつもりで分かっていなかったということを感じ、改めて、自分のことを考えると、嫉妬心というものを持った。いわゆる普通の男性、あるいは、女性なのではないか?」
と感じるということであろう。
嫉妬というのは、自分を顧みるということへの、一つの表現なのかも知れないとも思うのだ。
そんな女性の間に男が入った。その男は、唯一、二人の存在を知っている。
ここでは敢えて、他の人間を登場させないが、他の人が、二人のことを知っているかどうかというのを、わざとぼかして書いている。
最後まで、
「三人だけ」
というのを貫こうと思っているのだが、それが、さくらの作法だといってもいいだろう。
小説の長さがどれほどになるのか、今ではまだ想像もできないが、登場人物から考えると、短編、よくても中編がいいところであろう。
長編になると、少し、ストーリーがだらけてしまう気がする。
もっとも、この話にだらけたところは必要ないということは、一番作者が分かっていて、「だらけてしまうと、話が続かない」
ということは、分かっているのだった。
だから、話としては、
「短編にしては長いが、中編としては短い」
というくらいの話にしようと思っている。
そこで問題になってくるのが、主人公であった。
「三人三様の主人公」
というのもありではないかと思った。
要するに、
「それぞれの章で、主人公を変える」
というものである。
それぞれの視点から見るドラマは、まるで、
「箱庭を見ているような感覚ではないか」
というものであった。
表から箱庭を見ている目線と、そして、箱庭自体が一つの大きな世界であるのだが、山間から、大きな顔が覗いているというような雰囲気である。
そんな不可思議な様子を考えてみると、
「最後に主人公に持ってくるのは、男性であろう」
と思った。
そして、最初が、
「五分前のオンナ」
であり、そして次に、
「五分後のオンナ」
ということである。
なぜ、このような感じにするのかというと、
「五分前」
のオンナは、次に現れるオンナと鉢合わせにならないように、いつも、五分以内で引き上げるということになるからだった。
慌ただしく引き上げていく姿を、物語の最初の掴みとして持ってくるのが、いいのではないかと思うのだ。
そして、
「五分後のオンナ」
に対しては、そのオンナが本当に、
「五分前のオンナと同じオンナなのか?」
ということを考えさせられる章であった。
それぞれに比較して、捉えるのだ。
この二人のオンナの感覚が、まるで、箱庭の表から見ている自分と、箱庭の中にいる自分との比較であった。
実際に、描くというわけではなく、そのイメージを捉えて、それを文章として整える。それが、執筆のテクニックだと感じるのだった。
五分後のオンナと、五分前のオンナとであれば、どちらがどちらか見分けがつかないということであるが、
「これが、箱庭を通して見ると、その違いがハッキリと分かるのだ」
というような設定にするというのも、少し曖昧ではあるが、まったく同じものを見分ける方法としての、
「怪奇性」
ということで、そのような発想は、十分にありえるのではないだろうか?
そんなことを考えると、最後の男性の場合だけ、まったく違ったシチュエーションとなる。
そこに、
「転」
を持ってくるか、いきなり、
「結」
として結んでしまうか?
ということが問題となってくるだろう。
そのあたりは、実際に描きながら、プロットの段階で見れればいいが、今までの経験から、プロット作成の段階で、そこまで行き着くということはない。
逆にプロットをうまく作り上げてしまうと、本文で言葉が出てこなくなってしまうだろう。
そういう意味で、小説における、
「パワーバランス」
をうまく働かせるのが、大切だということである。
さくらの思惑
小説の中で、三人の人間が、画策しているという感じの描き方をしているのだが、本当は作者である、さくらとしては、本当は恋愛物語を書きたいのだった。三人の人間模様は、一種の三角関係であり、恋愛といっても、
「愛欲」
に近い形である。
ただ、ドロドロとした部分を描きたいわけではない。そのため、少しSFチックなことを描いて、
「ドロドロした部分を少しでも打ち消したい」
ということを考えたのだ。
それが、さくらの考え方であり、
「その通りに書けたかな?」
という不安がありながらも、とりあえず、書き切ることに終始したのだった。