中二病の犯罪
「同じような性格に近づいていく」
ということの現れで、それだけ、
「人生の中において、自分の性格は、ループしているのではないか?」
と感じるようになった証拠ではないだろうか?
世の中でも、ブームというのは、
「繰り返す」
と、よく言われる。
「十数年に一度、以前に流行ったブームがまた訪れる」
というのは、ファッション業界などでは、よく言われていることであり、もっと言えば、「サブカルチャー的なブームも、同じように、十数年に一度の周期で流行ることが多い」
という話を聴いたことがあったくらいだった。
それを思うと、
「確かに、中学時代に、友達から聞かされたブームの話を、今でも忘れずに覚えているのは、そういうことだろう」
と感じていた。
特に、中学時代というのは、何が好きだったのかということをすぐには思い出せないほどに、いろいろなことに興味を持っては、すぐに飽きるのか、別のものに飛びついていた。
自分としては、一種の、
「黒歴史」
ではあるのだが、本当にすべてが、黒歴史だったのかというと、そうでもないような気がする。
途中から、引きこもりになり、學校にもいかなくなって、ゲームに没頭する毎日とはなってしまったが、だからといって、
「自分のすべてを否定する」
というのは、決してしなかった。
それよりも、
「自分で肯定できるものが何か?」
ということが、ハッキリと分かることができるのか?
と考えてしまう自分を、嫌だとは決して思わない。
「健気な自分」
それを考えるようになっていたのだった。
小説を書いていくうえで
隆の小説は、基本、小学生の頃の思い出を中心に書いて行こうという思いがあることから、一番の問題は、
「どこまで思い出せるか?」
ということであった。
すべてを思い出すというわけではなく、ところどころ、思い出せるところだけを思い出していくと、その感覚が、どうやら、
「妹目線で思い出している」
ということに気づいたのだ。
それが、前述の、
「妹目線で描く」
ということに繋がるわけで、そもそも思い出してきたのが、
「妹目線」
ということだったわけなので、当たり前と言えば当たり前だといってもいいだろう。
そのことを考えてみると、
「なぜ、妹目線で、記憶がよみがえってきたのか?」
となるわけで、最初はそれを、
「時系列以外でしか、思い出せないことだ」
と思っているのだと、感じたのだ。
要するに、
「時系列で思い出すことができれば、自分目線での記憶になるのだろうが、自分以外の目線で思い出そうとするから、違う人の目線になるのではないか?」
と感じるのだった。
だが、それは、
「そもそも、記憶する時において、自分が、時系列でしか覚えられないのが原因なのか」
それとも、
「女の人の目線で見たことを、本当に記憶しているから、時系列ではない記憶が、よみがえったからなのか?」
ということを考えてしまうのだった。
自分にとって、記憶というのが、どういうものかということを考えた時、二段階に分かれていることを感じている。
まずは、
「意識すること」
であった。
意識するにしても、自分の中にある思考回路の、
「意識」
というところに、格納し、その前に、それが、意識をする前に、スルーしてもいいようなことであれば、記憶という方に直接飛ぶことになるだろうが、意識すべきことであれば、まずは、意識することで、頭が働き、まわりとの関係であったり、自分の行動指針などが、いかにうまくできるかということが問題にもなってくるだろう。
それを考えると、
「意識することがいかに、自分にとって大切なことであるか」
ということになると考えるようになる。
妹目線というものが、意識の中にあったのかどうか、今の
「記憶の格納」
と言われるところで、いかに入り込んでいるかということは、すぐには分からないような気がする。
つまり、
「まずは、意識というところに行くことで、そこで、時系列であったり、自分が意識していることを映像にしてみようとする感覚から、色や形がハッキリしてくる。それが表情であったり、それによって感じる、相手の性別、性格などが分かってくるというものであった」
それを考えると、意識というのは、
「記憶に格納するための、事象を、時系列で組み立てることを最終目標にしているものではないか?」
と感じるようになった。
そこで記憶されたものも、
「意識を通らずにいきなり、記憶に飛んできたものなのか?」
それとも、
「意識を通り、時系列や色などすべてを意識させる映像のような記憶なのか?」
ということを考えると、それが、
「夢だったのかどうか?」
という意識は、記憶に繋がっていくものなのだろう。
それほど昔の記憶ではなかったことで、ただ、一度、その間に、思春期というおのがあったことで、普通ならまだ、
「意識」
というものの中にあったかも知れないものが、
「記憶として格納された」
ということになったと考えれば、隆にとって、その時、自分が、何をどのように感じたのかということは、すぐに忘れてしまった。
だからこそ、小説は思ったよりも早く書けた気がした。というよりも、
「あっという間に書いた」
という思いがしているだけで、
「実際には、結構時間が掛かったのかも知れない」
と感じていたのだ。
その小説は、中学生同士の恋愛だった。
女の子は、完全に思春期を終えていて、意識だけは、
「オンナ」
になっていた。
「背伸びするということを含めて、オンナになった」
といってもいいだろう。
だから、隆の中で、まだ中学生だった女の子は、すでに、
「処女ではなかった」
のだった。
相手が誰であったのかというようなことは関係ない。ただ。
「オンナになった」
という意識があればいいだけであった。
つまり、
「大人のオンナになるということは、処女ではなくなる」
という、ストレートな意識を持っているだけで、そこに、精神的なものは含まれない。
もし含まれるとすれば、それは、男の存在が見えてこないと、想像できることではないということであった。
大人のオンナを演出するために、化粧を施してみたりと、小説内で書いてみたが、隆は実際に、化粧をする女性が本当はあまり好きではなかった。
「素直で実直な女性を好きだ」
という意識があった。
どんな女性を好きになるかということは、思春期の隆の中で、それなりの理想のようなものがあった。
その思いを抱いたまま、夢を見ているので、女の子の気持ちになっている小説の主人公には、
「男性の心として、代表して、隆の考えている理想の女性」
というものを、意識するように考えているといってもいいだろう。
だからこそ、
「何でも分かっている女性」
つまりは、
「マルチ理想を持った女性」
ということで、主人公を演出できたのだが、そうなると、そんな彼女から慕われている男性が、
「どうしても、頼りない存在になるのではないか?」
と感じるのだが、果たしてそうだろうか?