中二病の犯罪
そんなことを考えていると、ますます、相手の男の子が、
「中二病のなっている」
と感じずにはいられない。
しかし、主人公を女性にした以上、男が、少し頼りないくらいの方が、
「主人公が引き立つことになる」
と考えることで、先がしっかりと見えてくるように感じられ、作品が引き締まってくるように思えてくるのだった。
中学時代の恋愛というものがどういうものなのか、正直分からない。しかも、主人公を女性にしたということで、特にオンナというものが分からない隆にとっては、もちろん、女心が分かるわけはない。
と、そう思っていたが、実際にいろいろ考えていると、女性の恋愛感情が、何となく分かってきた。
いや、思春期の女の子の気持ちだから分かったといっていいのか、小説を書いているうちに、
「相手が男性であれば、どう接すればいいのかということが、何となく分かるような気がしてきた」
と思えた。
まだ、思春期の男の子を、男性として見ることはできない。明らかに、女性の方が立場が上という意識がある。
しかし、それを表に出す気はしなかった。表に出すということは、自分の気持ちを表に出すことが、相手からこちらを見やすいと感じるようなものだと思ったからだ。
そういえば、以前、テレビドラマで、面白いシーンを見たことがあった。
あれは、ミステリー番組で、心理的な話をしていた時、棋士の人が言っていた言葉であったが、
「将棋において、一番隙のない布陣というのは、どういう布陣なのか分かりますか?」
とプロ棋士がいった言葉であるが、それを聞いて、刑事は、
「いいえ、分かりません」
と正直に答えた。すると、棋士は、
「それは、最初に並べた形なんですよ。一手打つごとにそこに隙が生まれる。だから、将棋においては、完全に減算法とでもいえばいいんでしょうかね?」
という話をしていた。
物事には、加算法と、減算法という考え方がある。
将棋では、減算法ということのようだ。
確かに考えてみれば、そうだ。
決められた布陣を元に、相手を攻撃していく。守りながらの攻撃になるのだから、将棋において、守りということを考えると、減算法というのは、当たり前のことであろう。
つまり、
「負ける前に相手に勝つ」
というのが、将棋というものであり、ひいては、勝負事というのは、ほとんど、そういうことになるのだろう。
小説を書く上で、隆が考えている、
「思春期における男女の関係」
というのは、このような、将棋の関係に似ているような気がしている。
「動いた方が、ちょっとした隙を見せることで、相手のこちらの戦術が見えているように感じられるので、あまり強く攻めることができない」
と考えるようになっていたのだ。
そんなことを考えていると、この間まで自分が嵌っていた、ゲームのことを思い出していた。
ゲームでは、相手との関係を、
「引いたり出したり」
というような、
「一進一退の攻防」
が繰り広げられているように思えたが、それだけではない。
ゲームを続けていくうえで、どうしても忘れがちなのは、
「時間が経つにつれて、次第に疲れていく」
ということであった。
相手も、きっと同じであろうが、体力の消耗をお互いに意識していないと、気力の方が衰えてきて、そのうちに考えるということが、おろそかになってくる。
それを思うと、お互いに動けなくなることを、
「自分の中の衰えということは感じても、体力の衰えという意識しかなく、本当はそれが気力の衰えだった時、疲れというものが、次第に不安というものに変わっていくということに気づかないのではないだろうか?」
と思えてくる。
そこで、思春期に襲ってくる不安というのは、正直バランスが崩れることであり、それが、体力の衰えと一緒にくると、自分でも、何が何だか分からなくなってくる。それを思うと、残るのは、不安だけとなり、それが疑心暗鬼を生み出してくる。そのことが、相手への不信感になり、いつの間にか恋愛ではなくなってしまい、自然消滅してしまうというのが、思春期における恋愛感情というものではないのだろうか?
それを女の子の目で見ていると、男の子からは想像もできないような発想が生まれてくる。
「きっと、自分が、男としてもっとハッキリとした恋愛を見ることができると、女の子の目で見るようなことはなかったはずなのに」
と隆は考えていた。
それは、きっと、
「お互いの歩み寄り」
という発想がなかったからではないだろうか。
男であれば、一方通行の愛情を傾けることになると考えるであろうが、女性側から見ると、
「相手との駆け引き」
というところで見るようになるのではないかと感じるのだ。
その思いが、相手を自分である隆として見ているからで、
「隆だったら、どう考えて、どう行動するのか?」
ということを、女の目から見ているということになり、それが分かってくると、小説もおのずと浮かんでくるというものであった。
自分で小説を書くようになると、プロ作家の小説も気になるようになってきた。
といっても、隆が読んでいる小説は、ベストセラー作家ではなく、その当時としては、まだまだ、これからという作家ばかりだった。
そもそも、ミーハーなことが嫌いだったので、最初からベストセラーとなった小説家に飛びつくというようなことはしたくなかったのである。
小説家というのがどういうものなのかということを考えていると、
「今、自分が読むべき小説は、自分と同じように、まだまだこれからの作家の本を読むのがいいような気がする」
と思えたのだ。
「なぜ、そう思うのか?」
ということは分らなかったが、
「自分が目ざとく見つけた作家が、後になって売れるということが、この上ない喜びになる」
と思ったからだった。
最初から売れている作家の本を読んでも、自分の喜びにまったく結びついてくるわけではない。
それを思うと、
「喜びを追求する」
ということに、身体が震えるような快感を味わることができるのだろうと、感じたのだった。
「身体が震えるような快感であれば、同じよろこびというのでも、悦びという漢字を書くのではないか?」
と思った。
思春期というこの微妙で、デリケートな感情を抱く時期において、隆は、少しエロい感情を抱いたことで、漢字に対しても、微妙な違和感を感じたのだったが、それも、自分というものが、
「女性としてまわりを見ている」
というところから来ているような気がした。
「男性が女性を見る。あるいは女性が男性を見る」
という感覚よりも、女の子の感覚になってみると、何か、
「女性同士の、知られざる世界」
というものを、見せつけられているように感じるのだった。
その思いは、どこか、
「背伸びしている感覚」
に思えてくる。
知らなければいけないわけではない世界」
というものを、感じることで、今まで知らなかった世界が開けることで、
「相手が異性を意識するというのは、同性も同じように今までにない意識した目を向けているのではないか?」
と考えるのであった。
ある意味、どこをどう飛躍したのか分からないが、