小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

中二病の犯罪

INDEX|6ページ/20ページ|

次のページ前のページ
 

 という感覚が強いということに気づくようになってきた。
 それが、小学生高学年の頃の感覚だったのではないだろうか?
 他の人とは、そんなに差がないような気がしていた。遅いか早いかというだけのことで、
「誰もが通る道」
 ということなのだろう。
 少年だった頃のことを思い出そうとすると、この小学生高学年の頃は避けては通れないものだったりする。
 その頃の、いわゆる、
「遠い過去」
 というものは、現在からみれば、ほとんど、差がないように見えるのは、そのどちらも遠く感じるからである。
 それは、宇宙空間というものを想像した時に感じる。
 SF特撮映画などを見ていると、宇宙空間の、比較的地球に近い宇宙空間に佇んでいる宇宙船が、地球を目指して進んでいる時、その姿がどんどん小さくなっていき、そのうち、豆粒のようになっていき、スーッと消えていくように思えるのだ。
 しかし、決して、そんなに近づいたわけではない。それが宇宙空間というものの、感覚なのだろうか。
 それだけ、
「地球というものが大きい」
 ということも言えるのかも知れない。
 宇宙に存在する無限の星の中では、まだまだ小さい方なのかも知れないが、何といっても、生物が存在し、人間のような高等生物がいるのだから、少なくとも、周辺の星の中では、
「異質な存在」
 といってもいいのかも知れない。
 地球との距離を宇宙空間の一点から見て、そこから、地球に向かって移動する宇宙船から、距離を考えるという発想は、隆だけではないだろう。
 しかし、それが、今まで生きてきた時系列や、事件などと結びつけて発想するという人は、そうはいないだろうと思っていた。
 小学生高学年の頃から、何か奇抜なアイデアも浮かんでいたのだが、そんなアイデアをもし、人にいおうものなら、変人扱いのようなことをされてしまうという意識から、余計なことを考えないようにしたのだった。
 自分にとっての遠い過去というものを考えた時、
「小学生高学年の頃の記憶の方が、小学生低学年の頃よりも、遠く感じるような気がするんだけどな」
 と思うのだった。
 気のせいかとも思ったが、そうでもないようだ。
 小学生の低学年の頃の意識は、今ではほとんどない。
「記憶が希薄だ」
 といってもいい。
 だが、それは記憶という器から、意識というところに戻して、そこで再生させることで、自分の中で、映像化であったり、意識として感じることができる再生というものができるのだろうと思っている。
 しかし、小学生の低学年の頃の記憶は、意識としてのスペースに戻すことができないのかも知れない。
 それでも、意識は断片的に残っているのだから、感覚としては、存在しているのであった。
 それを思うと、
「俺の記憶の中で意識として戻せるのは、小学生の高学年以降ということになるな」
 と感じ、
「物心がついたという言葉で言い表せる時期として、俺の場合は、小学生の高学年になってからということになるのだろうか?」
 とも思った。
 だが、物心がついた時期というのは、
「記憶として残っている部分である」
 と解釈すれば、小学生低学年も、十分に物心がついていた時期なのだろう。
「じゃあ、物心がついてから、思春期までの間というのは、どういう時期だったのだろうか?」
 と考えると、
「記憶としてしか残っていない時期もあれば、意識として認識していた時期がある。意識として認識できている時期を、少年というのではないだろうか?」
 と考えてみた。

                 引きこもりの時代

 時系列の中で、その時々のタイミングで、節目を感じた時、その順番がたまたま他入れ替わるのではないかと感じたのは、今の年になってからのことだった。
 中学時代、高校時代には、毎日を生きるのが精いっぱいだった。
 といっても、努力をしていたわけではない。むしろ努力をすることを放棄し、いわゆる、
「引きこもり」
 になったのだ。
 これも、典型的な、転落人生の一つなのかも知れない。
 中学生になってから、急に自分が、
「周りから浮いている」
 という感覚を持っていた。
 思春期が近づいているという感覚もあったが、自分が変わりつつあるのに、それなのに、自分に誰も注目してくれないことに、苛立ちのようなものを覚えていた。
 別に自分が、目立ちたいとか、輪の中心にいなければ我慢ができないなどということを感じたわけではない。むしろ、
「面倒くさいことは嫌いだ」
 と感じたほどだった。
 それなのに、まわりが動いているのに、自分だけが、静かにしていなければならないということに、何か我慢ができないものがあった。
 あれは小学生の頃だっただろうか。夏休みに親が旅行に連れていってくれたことがあった。
 親の運転する車で、出かけた温泉地であったが、
「鄙びた温泉」
 というわけではなく、どちらかというと、歓楽街が近くにある、観光地に隣接した温泉ということであった。
「子供も遊べる温泉」
 ということで選んでくれたのだろう。宿につくと、当然のごとく、子供は、宿を中心としたところ当たりを、散策したがるものだった。
 だから、隆も、他の子供も同じであろうことをするつもりで、宿につくと、ワクワクした気分になって、散策気分で出かけようとした。
 すると、親が意外な言葉を口にしたのである。
「隆、やっと着いたんだから、ゆっくりしなさい」
 ということであった。
 父親の方は、疲れが出たのだろう。座布団を枕にして、そこで昼寝をしているようだった。
 母親の方は、一人、取り残された手持無沙汰のように見えたので、子供としては、そんな姿を見ているのは、忍びない気がした。
「手持無沙汰なんだったら、一人でも宿を散策してみるとかしてみればいいのに」
 という気持ちになった。
 しかし、母親も明らかに疲れている。確か、昨日までは、あんなに、
「久しぶりに温泉だなんて、楽しみだわ」
 と、純粋に喜んでいたはずではないか。
 それは、裏を返したようなこの豹変ぶりには、さすがに驚かされた。
「最初は、もっと身体が動くと思っていたのに、実際には、動きが取れるほどではなかった」
 ということを感じたのではないだろうか?
 そんな母親を放っておいて、隆は宿を散策していた。すると、中には同じように宿を散策している子供がいるではないか。
 その子供は一人ではなかった。男の子と女の子のようで、男の子は、自分と同じくらいの年で、女の子は、まだ、小学生の低学年くらいじゃないだろうか?
 そんな風に思った隆は、遠目に見ているつもりだったが、その女の子が、隆のことが気になっていたようだ。
 どちらかというと、
「珍し気」
 という雰囲気で見ていたので、二人は兄妹なのだろう。
 普段は、お兄ちゃんしか見ていなかっただろうが、旅行先という解放された気分の場所で、他の子供、お兄ちゃんとは別の男の子を意識していたのかも知れない。子供というのは、そういうことがあり、そのおかげで、仲良くなれたりするものだった。
 その時、隆はその二人の兄妹と仲良くなった。妹の方が、やたらと、隆を慕ってくれるのである。
作品名:中二病の犯罪 作家名:森本晃次