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中二病の犯罪

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「中二の頃なら分からなくもないが、何でいまさらこの年になって、あんなことを叫ばなければいけないのか?」
 ということであった。
 隆自身の、思春期は、確かに中二前後くらいにあったのは確かだった。
 異性に対しての興味というのも、中三くらいからの、若干遅めではあったが、確かにあったことだった。
 中学時代に迎えた思春期で、異性に興味を持つようになるということは意識できていたのだが、それ以外の変化に対しては、あまり意識があったわけではなかった。
 どちらかというと、
「異性に興味を持てば、それが思春期だ」
 という意識が強かったことで、それ以外に関しては、さほど意識がなかったのだ。
 それを思えば、
「意識というのは、持つことで、思春期のような、人生の節目を超えることができるのではないか?」
 と思っていた。
 だから、中学時代に得ることのできなかった、
「思春期に通り過ぎなければいけない」
 という道を、通ることができたのかということを自分で分かっていないのだ。
 そもそも、思春期を通り越し、大人になるということがどういうことなのか分からない。
 もっとも、35歳になった今でも、35歳という年相応の意識があるにも関わらず、まだまだ意識が子供の頃と変わらない。
 つまりは、
「子供の頃の意識しかない」
 というような、まるで、
「成長が止まった」
 という意識があることに、隆は時々気づくことがあった。
 それが、高校生の時の、友達が倒れたという、
「救急車事件」
 だったのだ。
 そんなことがあってから、
「自分が恥ずかしい人間だ」
 ということを思い知らされた気がして、さらに、
「なぜ、友達にとって一番大切なことを意識できていなかったのか?」
 ということを感じさせられた。
 それから、再度友達に頭を下げて、
「聞くべきことを聞く」
 ということができるようになったのは、どれくらい経ってからだっただろうか、
 どうしても、すぐであれば、自分の方が歩みよるには、期間が短すぎる。相手が、忘れてしまったくらいの頃に聴いた方が、
「こいつは、やっとその気になったんだな」
 ということを強く感じてくれそうな気がして、その思いが相手に伝わる演出を、どうしてもしてしまうように考えてしまうのだった。
 この方が、
「一石二鳥だ」
 と考えたからだ。
 しかし、この一石二鳥という考え方が、そう考えた時点で、ある意味、
「卑怯だ」
 と言えるのではないだろうか?
 しかし、中二病になってしまっている自分を何とか成長かさせようと思うと、それくらいのことを意識しておかないといけないということであろう。
 間違っていると分かっていることでも、それを素直に認められないという意識がどうしても、人間にはある。
 それが時と場合によって、
「中二病」
 と言われるようなことになりかねないということである。
 隆は、自分が、中二病であるということを感じると、自分に対して、ついつい、
「自虐的」
 になっていることに気づくのだ。
 実際の中二病の症状では、
「自虐」
 という発想とは、むしろ正反対の意識があるのではないだろうか?
「目立ちたい」
 あるいは、
「背伸びしたい」
 という発想は、素直な気持ちであり、それだけに、
「抑えが利かない」
 といってもいいのではないだろうか?
 それを思うと、自虐というのは、
「自分を虐めたい」
 というよりも、
「自分を虐めているかのように見せて、そこで何かの辻褄を合せているのではないだろうか?」
 と感じるのだ。
 ただ、ここでいう自虐は、
「それをすることで、まわりが、本人の考えを、なるべく表に出すことで、笑ってもらって、真相から離れた意識を植え付けようという、どちらかというと、わざとらしさであったり、打算的なところがある」
 と思わせたいに違いない。
 それを思うと、
「自虐」
 というのは、まるで、
「プラスマイナスゼロ」
 というような、
「見かけの部分が存在しているような気がする」
 といってもいいのではないだろうか?
 それが、
「隆にとっての、中二病だ」
 と言えるのではないだろうか?
 隆は、自分のことを、
「中二病だ」
 という意識はあるようだが、
「自虐」
 という意識はなかったようだ。
 これは、隆に限らず、何か自分に対し自虐的な行為を、形に表している人であれば自覚もあるのだろうが、そうでもなく、ただ、他人が見て、自虐に見える場合もあれば、本人にも何となく自覚はあるようなのだが、どこか、認めたくないという意識がある場合もあるのではないだろうか?
 特に、自虐の原因の一つといわれる、
「自己肯定感の低さ」
 というものがあると言われているが、
「自分を認めないという意識」
 というものが、自虐という意識があっても、
「それを認めようとしないものが、どこかに潜んでいるということも言えるのではないか?」
 と考えるようになった。
 そして、自虐という言葉には、
「ネタとして弄られる」
 ということでの、自虐というのもある。
 この場合は、自分が、まわりから苛められているということを演出することで、
「自分が目立ちたい」
 あるいは、
「自分を目立たせたい」
 という意識があるからではないだろうか?
 バラエティ番組に出ている芸人が、弄られているのを、子供の頃に見て、本当に小さい頃は、無邪気に笑っていたが、小学生も高学年になってくると、見ているだけで、何か胸やけがしてくるのを感じた。
 その理由に関しては自分でも分からなかった。
「可愛そうだ」
 と思ったわけではない。
 むしろ、苛められているのを見て、苛立ちを覚えるくらいだった。
 その頃学校でも、苛めというのがあった。
 小学生なので、そんな目立つ苛めがあったわけではないが、皆に目立たないように行われていたのだ。
 それを、隆は知っていた。知っていて、何もできない自分に苛立ちを覚えたのだ。その感覚と、テレビに出ている芸人のその姿に苛立ちを覚えたのだ。
「こんな姿を電波に乗せるから、苛めのようなものがなくならないんだ」
 と、子供心に感じたものだった。
 子供といっても、小学生の高学年になってくると、
「低学年の頃のような、何も分からなかった幼児ではないんだ」
 と思っていた。
 小学五年生くらいになってくると、それまで感じたことのない感情が、時々生まれてきた。
 最初は、
「思春期というやつの、始まりだろうか?」
 と感じたりもしたが、どうもそうでもないようだ。
 確かに、それまで分かっていなかったことが分かってくるようになり、自分の中の、
「感情」
 というものが芽生えてきて、その感情に対して、さらにリアクションをしようとする時分がいるのを感じていた。
 だが、その感情は、ストレートなものが多かった。喜怒哀楽という言葉が、そのまま意識できると言えばいいのか、その裏に何も潜んでいるという感覚はなかったのだ。
 そんなことを感じると、自分のまわりにいる同年代の友達連中も、同じように、ストレートな感情を持つようになった気がした。
 ただ、この感情は、自分だけで持っているもので、
「まわりの人に知られたくない」
作品名:中二病の犯罪 作家名:森本晃次