中二病の犯罪
とにかく、政府も、他の官庁も、すべては日本主導であった。しかも、地球防衛軍の本部は、パリにあるのに、パリ本部の意見もまったく聞かずにである。
ひょっとすると、極東基地に、すべて一任だったのかも知れない。しかし、国家間の問題であればまだしも、何と言っても、全世界的問題を、一家国の隊長に、一任するというのも考えにくい。
やはり、
「子供向けの番組」
ということでの許容範囲だということだろうか?
そのあたりを考えてみると、
「あの時代だから許されたのかも知れない。それ以上の小説やマンガは、結構時代考証であったり、理屈に合わないようなことは抗議が来たりして、結構大変のようだった」
さらに、その後のアニメなどでは、巨大ロボットものがあったりした。それが、今でも続いているものであり、その内容も、ちゃんと理路整然としたストーリーでなければ、視聴者が許さなくなった感じであろう。
ただ、最初の頃の子供向け番組であれば、研究所のようなところがあり、そこで、地球規模のエネルギー研究などをしていると、悪の組織が邪魔をしてくる。
「自分たちが生存するのに、困る」
という内容であったり、逆に、
「人間を攻撃するための武器になる」
ということで、相手の組織もそんなエネルギーを何とかしたいと思うようになるのだった。
こちらも、相手にどういう事情があるにせよ。
「人間が生き残るために、悪の組織をやっつける」
という構図は、特撮ヒーローものと同じで、こちらは、人間が開発したメカやロボットを人間の青年が操縦するというストーリーなのだ。
そして、今度は、同時期に、
「人間に等身大のヒーロー」
が生まれるようになる。
それらは、ロボットというのか、サイボーグであったり、アンドロイドだったりするのだ。
日本語に治せば、
「人造人間」
と言ったところであろうか。
普段は人間の姿をしているが、戦闘ともなると、戦闘用のフォームにチェンジするということである。
このような、
「人間型ロボット」
の場合というのは、少し込み入っている。
というのは、巨大ロボットは、人間が操縦席に座って操縦する形になるのだが、人間型ロボットの場合は、そうはいかない。
つまりは、
「人工知能」
あるいは、
「電子頭脳」
と呼ばれるものを搭載しないといけない。
これらは、人間が操縦するわけではないので、人工知能が判断し、行動する。
この時に問題になるのが、第一期ロボットブームの頃から言われている、
「ロボット工学三原則」
であったり、
ロボットの知能に直接関係のある、
「フレーム問題」
と呼ばれるものが問題になる。
サイボーグのように、脳を人間から委嘱した場合は、元が人間なのでいいのだが、アンドロイドのように、すべてを、人間が創造した場合は、人工知能の問題は、絶対に起こってくるものであった。
これら二つの問題は、今の世界においてだけ言えることではなく、今から50年前から大きな問題となっていた。
ここ50年で科学は飛躍的に進歩したが、達成できていないのは、
「ロボット工学」
と、
「タイムマシンの研究」
なのではないだろうか?
その中でロボット工学というのは、前述の2つの問題がある。
そのうちの一つの、
「フレーム問題」
というのは、ロボットが、行動する際の、
「可能性」
という問題を、果たして人工知能が把握できるのか? ということであった。
つまり、次の瞬間に発生する、無限の可能性について、
「ロボットはキチンと予知して動くことができるか?」
ということである。
「次の可能性」
というものは無限に存在するものである。
さらに、その中から一つの可能性を見つけ、行動した場合も、次には無限の可能性が秘められている。
そうやって、瞬間ごとに無限の可能性がある中で、瞬時にして、そのすべての可能性に対して、対応できるかということが問題なのだ。
しかし、次の瞬間に起こる可能性というのは、確かに無限であるが、実際にその無限を考えた時、
「実際に行おうとしている行動に対して、まったく無関係なことがほとんどである」
ということであった。
つまりは、
「実際に判断するための、範囲を限定できさえすれば、十分に人工知能は判断できるであろう」
ということである。
判断する範囲というものは、パターン化できるはずである。そのパターンを人工知能に覚えこませればいいという考えに至るのだが、今度はそれが不可能であることに気づくのだ。
元々が、無限なのである。それをいくつかのパターンに分けるというわけだが、要するん、無限というものから、考えられるパターンで割ることで、それぞれに見えてくる数の可能性だけを追いかければいいということになり、
「単純な割り算だ」
と言えるであろう。
割り算というものを実際にしてみると、無限というものから、パターンの数だけ割るということであるが、そのパターンというのも、無限であることに気づくのだ。
というのは、
「無限というのは、何で割っても、無限にしかならない」
ということである。
逆に、少なくとも、パターンなのか、パターンで割った時に求まる答えなのか、どちらかが無限でなければ、辻褄が合わないことになるのだ。
そうなると、どこまで行っても、
「無限は無限でしかない」
ということになるのだ。
それは、いわゆる、
「マトリョーシカ人形のようなもの」
であったり、
「合わせ鏡」
つまりは、自分の前と後ろ、あるいは、左右に鏡を置いた時、そこに写っている姿が、どんどん小さくんあっているわけではないが、
「無限に続いていく」
というものであった。
マトリョシカ人形にしても、この合わせ鏡にしても、無限に続いていく中で見えてくるのは、
「限りなくゼロ」
に近いというものであった。
それも、見えているものが、
「無限に続く」
ということが前提にあるからである。
つまりは、
「ゼロになってしまうと、そこで終わりになってしまう」
という考えからである。
次のロボット工学の問題点としての、
「ロボット工学三原則」
という考え方は、元々は、
「フランケンシュタイン症候群」
というものから来ているのであった。
フランケンシュタインというのは、
「理想の人間をつくろうとした博士が、結果として、怪物を作ってしまった」
ということを基本としたストーリーであった。
だから、人間はその過ちを犯さないように、ロボットの人工知能に、最初から、3つの原則を植え付けるということを考えたのだ。
順番に、
「ロボットは人を傷つけてはいけない。もし、人間が危険にさらされることがあれば、自らの命を捨ててでも、人間を助けなければいけない」
「ロボットは、人間の命令には、したがわなければならない」
「ロボットは、自分の身は自分で守らなければならない」
というものであった。
この3つには、それぞれに優先順位というものが存在し、
最初から順にその優先順位は高かったのだ。