中二病の犯罪
「現実的に不可能ならしめるものは、犯罪者の心理が影響してくるからである」
ということであった。
「あくまでも、机上の空論であれば、完全犯罪ならしめることはできるだろう。しかし、ところどころの犯罪者の心理は、犯行を犯す人間からすれば、うまくいくものではない」
と言えるだろう。
特に、この犯罪には、いくつかの、
「縛り」
のようなものが存在する。
一つは、
「一人では絶対にできない犯罪だ」
ということである。
しかも、この犯罪は、
「計画するのは、一人なのかも知れないが、計画した人が主犯で、もう一人の人間が、共犯」
というわけでもない。
さらに、
「犯罪というものは、共犯が増えれば増えるほど、発覚しやすい」
という問題もある。
それだけ、犯罪行為というものは、センシティブなもので、精神的なちょっとした違いから、大きな問題に繋がってくるものだといえるだろう。
この犯罪は、特にそれだけデリケートな部分をたくさん含んでいて、あることを失念してしまうと、
「この計画は、最初から破綻していた」
といってもいいだろう。
この犯罪をトリックのネタとして考えた時、思いついていたのが、
「ヘンペルのカラス」
という問題であった。
これは、一つのことに対しての定義の問題なのだが、小説のトリックを、
「いかに、バリエーションを生かした内容にしようか?」
と考えた時に思いついたものだったのだ。
この命題は、
「すべてのカラスは黒い」
ということに対しての証明を、いかにするか? ということの問題提起だったのだ。
これを解決するために、考える方法として、その対偶として考えられる、
「すべての黒くないものは、カラスではない」
ということを証明するのが、問題だということになる。
「すべての黒くないものを調べなければならない」
ということで、非常に手間のかかることである。
これは、ある意味、
「無限に存在するものを、すべて調べる必要がある」
ということで、理論上は、そうであっても、実際には、どうなのかということが大きな問題ではないだろうか。
そういう意味では、前述の、ロボット工学における、
「フレーム問題」
であったり、
「マトリョシカ人形」
あるいは、
「合わせ鏡」
の問題のような、
「無限に続いていくことで、永遠に、限りなくゼロに近い存在も、一緒に続いていく」
ということになるのだった。
ここでも、
「無限」
という問題と、
「限りなくゼロに近い」
という存在とが、合さってくるのだろう。
もう一つ隆の頭の中で、考えていたこととして、
「紙の厚み」
という考え方だった。
紙というのは、非常に薄いものであるが、それでも、100枚、200枚と重ねていくと、束になってきて、500枚くらいを一束として、包み紙にくるまれているのが、ちょうどいいくらいの厚さになっている。
これは、
「マトリョシカ人間」
であったり、
「合わせ鏡」
における、
「限りなくゼロに近い」
という存在の逆バージョンではないかと思うのだった。
というのも、
「ペラペラの薄さが、限りなくゼロに近い存在だ」
と考えれば、永遠に続く合わせ鏡の元になるものが、
「束になった用紙」
だといえるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「逆の発想を帰納法だといえば、ヘンペルのカラスという発想も考えられないこともないのではないか?」
と思うようになった。
それと似たような発想で、
「悪魔の証明」
というものがある。
つまり、
「証明することが実に困難であることを、悪魔に例えて考えるようなこと」
を証明することを、
「悪魔の証明」
だという。
確かに、黒いもの以外のすべてを調べあげて、そこにあるものがすべて、カラスでなければ、すべてのカラスは黒いということになるのだろう。
これは、あくまでも理論的なものであり、日常的な発想からすれば、奇妙に感じられることである。
やはり、
「否定する二つを比較する場合は、考え方が少し違う」
といってもいいのかも知れない。
例えば、肯定的なものを、
「あるいは」
という形で結ぶ時、
「A=B OR B=C」
ということになるだろう。
しかし、このイコールというものが、不等号であったとすれば、数学的な文法上では、このまま、ORは使えない。
使うとすれば、
「AND」
を使わないと、理論上可笑しくなるのだ。
これは、コンピュータにおける、
「四則演算子」
でも言えることであり、そのことが、この、
「ヘンペルのカラス」
という帰納法が抱える、根本的な問題への解決方法としての、一つのネックになることであろう。
ここで問題になってくるのは、
「無限なものをいかに証明するか?」
ということである。
「ヘンペルのカラス」
においては、その証明として、
「何もすべてのものを調べなくても、ある程度のものを調べることで、すべてだということの証明だ」
と考えることも一つである。
「全体だと思えるような十分なサンプルが得られる」
ということが必要である。
類推による証明で、可能性を極限まで高めることができればいいという発想で、この発想は、どこかで聞いた発想に似ているのではないか?
そう、無限に広がっていることとして、前述にあったような、
「限りなくゼロに近いもの」
ということとして、合わせ鏡の発想の逆が考えられるのではないだろうか?
つまりは、
「限りなくゼロに近い」
というが、ゼロにはならないというだけで、その推移は、想像することしかできない。
これと同じで、無限に繋がっていることも想像するしかできないのであれば、ある程度の十分といえるサンプルが見つかれば、すべてを調べなくても、類推で判断できるということになる。
それを妥協といえばいいのか、それとも、
「悪魔の証明」
のようなものなのか、曖昧さをどう解釈するかということが問題なのではないだろうか?
それが、
「ヘンペルのカラス」
であったり、
「悪魔の証明」
という問題と関わってくるといってもいいのっではないだろうか?
探偵小説における、
「トリックの公式への挑戦」
というべき内容の、小説を読んだことがあった。
「トリックの公式」
というのは、いうまでもなく、前述していたものであるが、
「顔のない死体のトリック」
においての、
「被害者と加害者が入れ替わる」
という発想であった。
この発想は、
「殺された人間に顔がない。つまりは、身元が誰か分からない。判別することができないのだ」
ということを大前提として、殺されたと思わるA、殺したと思われるB、という二人を考えたとしよう。
警察は、Bを指名手配することになる。
しかし、Bは実際には死んでいるわけだ。どんなに探しても見つかるわけはない。死んでいるのだから。
もっといえば、警察というところは、殺されたと思い込んでいるAを絶対に探そうとはしない。Aを見知っている人でなければ、Aが生きている姿を見ても、気にすることはないだろう。
そういう意味で、昔は、探偵小説で、