中二病の犯罪
「苦手なコースにしかこなかった打席は、相手が悪かったという感じで、捨てる覚悟さえあればいいわけだ」
ともいえるだろう。
ただ、野球というのは、団体競技で、一打席を、
「すべて同じ状況で迎えるわけではない」
つまり、
「ここでヒットを打てば、勝てる」
という場面で、
「一打席を捨てる」
などということを口にしようものなら、次から使ってもらえなくなるだろう。
しかし、選手も人間。それくらいの覚悟で打席に望むという意味で、あくまでも、考え方だということである。
だた、
「長所を伸ばす」
というポジティブな練習方法でやっていれば、打席でのやる気が漲っていることだろう。
相手が攻撃的になってくればくるほど、こちらも、攻撃的になるというもので、
「それが、野球の醍醐味だ」
ということになれば、見ている方も、一打席における1:1の勝負が見ものになるというものだ。
そういう意味で、
「短所を克服する」
という練習よりも、
「長所を伸ばす」
という練習が大切だと思うのだ。
一見、楽しそうに感じるが、確実に逃さないようにするための練習なので、これほど精神的にきつい練習というのもないであろう。
それを思うと、長所と短所というものが、そもそも、裏返しであろうが、紙一重であろうが、基本は、長所を伸ばすということにおいては、どちらでも、あまり関係のないことだといえるのではないだろうか?
それは、
「先駆者を目指す」
ということに似ているかも知れない。
先駆者を目指すためには、他のすべてのことを知らないといけない。長所だけを延ばすのと少しかけ離れているように思えるが、
「一点を捉えれば、そこを逃してはいけない」
ということに、どちらも他ならないのではないかと思うのだ。
他のすべてのことを知るのは、至難の業だ。しかし、パターンを知ることで、分かってくることもある。
それが、自分の長所短所だと思うと、他のパターンだって、人が考えたことなのだ。自分の身になって考えるということで、その発想も、無理のないことではないのではないだろうか。
ヘンペルのカラス
隆は、先駆者に憧れて、他の人がしないようなことをしようと考えた。
ミステリー小説を考えていたが、そこに、
「数学的な要素」
であったり、
「心理学的な要素」
を組み入れたいと思っていたのだ。
心理学的な要素を組み入れた小説は多いが、なかなか数学を組み入れた小説は少ない。
そんな中で、今までに考えてきたことでも、数学的な要素がいくつか含まれていることも自分で分かっている。
特に、ここまでに前述した中に、数学的な発想があったのも否めないではないだろうか?
まず一つとしては、
「限りなくゼロに近い」
という発想である。
これは、
「合わせ鏡」
であったり、
「マトリョーシカ人形」
という発想であったりするもので、
「どんどん小さくなっていくものが、理論的には、無限に続いている」
という意味合いで、
「無限に続いていながらも、決してゼロになることはない」
ということである。
これは、数学における、
「除算」
の考え方をすれば分かることだ。
あるものから、あるものを割った場合に、どちらも負の値でなければ、整数として、答えが出て、どんなに小さくなっても、ゼロになることはない」
というのは、数学的にも証明されていることである。
だから、発想として、どれだけ小さくなっても、ゼロにならないということで、
「限りなくゼロに近い」
ということになるのだった。
もう一つの考え方としては、ロボット工学の発想の中にあった、
「フレーム問題」
という考え方である。
これは、ロボットの人工知能というものが、
「無限の可能性が広がっているので、無限の可能性を一気に考えることは無理なので、そのうちの必要なものだけを考えるように、パターン化すればいい」
というような発想だった。
しかし、これも、実は数学の考えからいけば、
「不可能だ」
と言えるのではないだろうか。
というのも、数学の計算式で、
「無限というものを、何であっても、出てくる答えは、無限しかない」
ということである。
一つだけ例外があるとすれば、
「ゼロで割った時」
ということだが、この際、考えなくてもいい。
だが、無限から無限を割ると、同じものなので、「1」だといえるだろうが、それ以外は、何で割っても、結果は無限でしかない。
ということは、パターンで分けるということは、不可能なのだ。
しかし、なぜか人間も動物も、その可能性のパターン化ができているから生きているのだろう。
動物の場合は、
「本能」
というものが働いているということであろうが、人間の場合も、
「本能」
で片付けていいのだろうか。
人間だけは、特別に何か、他にあるのかも知れない。
探偵小説のネタを考える時、このような数学的な発想を考えていると、トリックの中にも、
「何か使えるものがあるのでないかと考えるようになった。
時代の違いで、前述のように、昔のトリックが使えなくなってきていて、その証拠として、
「顔のない死体のトリック」
というものがあった。
科学が発達することで、DNA鑑定などを行えば、顔や指紋がなかろうとも、その正体を判明することもできるようになってきた。
また、
「アリバイトリック」
などでも、最近は、街のいたるところに、防犯カメラが設置してあったりして、昔のように、人の証言によるアリバイの証明という曖昧なことはなくなった。
それだけ、
「より完璧なアリバイ」
というものが、証明できるというものだ。
他のトリックについても、似たようなことが言えるかも知れない。密室にしたって、今のような、オートロックであったり、警備の掛かるマンションや雑居ビルなどでは、ほとんど、不可能に近い、そういう意味では、小説のネタになりにくいことだろう。
しかし、それだけに、それらに敢えて挑戦しようとするならば、それは、少なからずにおいての、
「叙述トリック」
のようなものがなければならないだろう。
つまり、
「書き手が、読み手に対して、何かを思い込ませることで、読み手が事件解決のための袋小路に入ってしまう」
というようなものである。
そんなことを考えていると、
「小説を書くことでのネタが、思い浮かびそうで浮かんでこないという、ギリギリの発想をしている」
ような気がしたのだ。
そんな中において、一つの殺人事件のトリックを思いついていた。
どんなトリックなのかというと、一口でいえば、
「探偵小説などでは、結構あるが、実際の犯罪ともなると、なかなかありえない事件ではないか?」
と言われるような話であった。
確かに、たまにサスペンスドラマなどでは、そんな犯罪を描いたものもあったが、非常に少ないものだった。
そういう意味で、
「成功すれば、完全犯罪になりえるが、その成功の可能性は、ほとんどない」
ということである。
というのも、
「あまりにも不可能だといえることが多すぎる」
というものであるが、それは、