中二病の犯罪
「顔のない死体のトリック」
というものは、よく使われていた。
しかし、実際にそんな殺人が多かったのかどうかは分からない。
実際にあったとしても、なかなか犯罪として計画するのは、難しいかも知れない。
どちらかというと、
「偶発的に起こったことで、その結果を踏まえて、犯人が偽装工作をした」
ということであれば、実際にもあったのかも知れない。
そういえば、似たような発想として、密室トリックを題材にした小説があったが、これは、本来なら、
「犯人がちゃんといて、その人によって殺されたことにしようということで、計画された犯罪だったが、予定外の雪が降ったことで、仕方なしに密室トリックにしてしまった」
というのがあった。
だが、この事件は、肩や、犯人を特定するような偽装工作が施されていただけに、密室殺人が起こったことで、異様な雰囲気を醸し出し、事件を複雑にはしたが、その違和感が却って事件の真相に辿り着く決めてになったというのだから、
「やはり、突発的な事件が挟まってしまうと、成功しにくい」
といってもいいだろう。
逆に、探偵小説を考えるうえでは、ところどころ、そんな矛盾したものを伏線としておいておくことで、読者への挑戦にもなるのだ。
探偵小説というのは、
「ノックスの十戒」
と言われるものがあるように、読者に対しての挑戦という意味で、
「描いてはいけないこと」
というのが、タブーとして考えられている。
しかし、多少の叙述というのは、なければいけないものであり、叙述トリックというものを用いないと、
「探偵小説は成り立たない」
ということになるだろう。
密室という意味では、もう一つ面白いものもあった。
「密室にすることで、犯行現場をそこだと思わせること。あるいは、それによって、犯人のアリバイが成立してしまうということ」
などが、絡んでいるということが多くあったっりする。
その話は、バラバラ殺人であったが、
「入らなければ出られない」
という意味が含まれていたのだった。
そういう意味での、叙述というのは、結構あるようだ。
どこまでが、叙述で許されるのかどうかわからないが、探偵小説というものを考えた時、
「今では難しい」
と言われるトリックもたくさんある。
前述のような、
「顔のない死体のトリック」
に対しての挑戦においてもそうであった。
結局、殺された人間を犯人としてしまえば、警察は、犯人を絶対に見つけることができないのだから、事件は迷宮入りとなる。
当時の殺人の時効というのは、15年だった。
ということは、15年、隠れていれば、それ以降は姿を現しても、裁かれることはないということである。
それが、
「顔のない死体のトリック」
であるが、警察が、間違えてくれないと、
「この事件は、普通の殺人事件となり、計画は元も子もなくなってしまう」
と言えるだろう。
それを、さらに確実なものとするという意味で、
「顔のない死体のトリック」
に対しての挑戦ということだったのだ。
そんな発想をいかに考えるかということが、一種の、
「バリエーションを利かせる」
ということであり、今回のこの、
「挑戦」
というものは、別のトリックとの併合となるわけだが、それは、ある意味で、双極的な発想でもあった。
というのも、
「顔のない死体のトリック」
というのが、
「最初から、顔がない死体だということを、読者に示す必要がある」
ということである。
なぜなら、そうでなければ、公式である、
「加害者と被害者が入れ替わっている」
という公式の元に、事件解決へというストーリーが成り立たないからだ。
しかし、この
「顔のない死体への挑戦」
と言われる、
「併合されたトリック」
というものは、
「読者にそのトリックを見抜かれてしまっては、話が成り立たない」
と言われるものである。
つまりは、
「最後の最後、謎解きの瞬間まで、読者には伏せておく必要がある犯罪トリックの一つである」
ということだ。
この話がどのような謎解きになるかということが問題になるのだ。
この話は、
「ネタバレ」
になるので、これ以上の言及はできないが、犯罪トリックと、叙述であったり、トリックの併合という形で、いろいろなことを試みないと、
「バリエーション」
ということにはならないということになるのであろう。
隆とすれば、これらの犯罪を使った、
「探偵小説」
というものを、いろいろ研究し、自分でも、新たな探偵小説のようなものを書こうと思っていた。
ただ、普通に描くと、
「心理的なところで、不可能となる犯罪」
ということで、あくまでも、探偵小説としての世界でしかない。
最初からそういう発想にしてしまうと、探偵小説としては、実に陳腐なものとなってしまうのではないかということであろう。
大団円
今回考えている探偵小説では、気になっていることを織り込んでいくように考えた。
そのうちの一つは、
「中二病」
という発想であった。
「背伸びしたい」
という感覚が強い気がするのだ。
その強さがどこからくるものかということを考えると、
「女性目線で見ている」
ということであった。
この女性目線というのも、
「女の子が男性を慕っている」
という感じではなく、相手も女性、いわゆる、
「GL」
という感覚になってくるのであった。
「じゃあ、どちらが、男役なのか?」
ということになると、ピンとこないのだった。
それぞれのパターンにおいて、
「男にもなれば、女にもなる」
という感じで、今回の小説に関していうと、
「自分は女だ」
という感覚であった。
そう考えてみると、
「やはり、自分には、半分、女性の血が混じっているというのか、男になり切れないところがあり、そういう意味では、女性にもなりきれないという、中途半端な感じになっている」
という風に感じてしまう。
そのせいというか、おかげというか、双方向から見ることができるようになった。
だからこそ、今回のこの事件を頭に抱くことができるようになったのだ。
双方向の事件。普通の殺人事件という発想とは違っているのを感じるのだが、それがどういうものかというと、前述のように、
「パッと見、完全犯罪ができるような気がするのだが、冷静になって考えると、どんどん、ほころびが出てくるような気がする。そのほころびが、次第に強くなってくると、一度、こんな犯罪は不可能であることに行くつくのだ」
しかし、そこからが、発想の転換で、自分が、双方向から見ることができる。まるで夢の中での、
「夢を見ている自分」
あるいは、
「夢の中の主人公の自分」
というものが、
「どういう立場で見ているか?」
ということである。
隆は、今回の小説における、トリックのパターンを、
「交換殺人」
と決めた。
交換殺人というのは、メリットとデメリットの差が大きすぎる。メリットとしては、