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中二病の犯罪

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 それを考えると、
「先駆者というものが、どれだけ偉大かということであり、それを守るための法律もしっかりしていないといけない」
 ともいえるだろう。
 特に、巨額の金が動く著作物については、しっかりと守られるべきであり、それだけ、先駆者というものが、偉いといえるかということである。
 さて、最初に、
「発明、発見」
 をするという人は、頭の構造がどのようになっているというのだろう?
 いろいろと想像してしまう。
 少なくとも、
「他の人と同じ発想では産むことができないものだ」
 と言えるのではないだろうか?
 たとえば、
「小説の世界でも、ミステリー小説などであれば、トリックの重複があったりすると、下手をすれば、盗作だと言われかねない」
 確かに、トリックが同じだったりすれば、盗作と言われても仕方がないのかも知れないが、今言われているトリックの種類というのは、
「ほぼ、出尽くしている」
 と言われている。
 新しいトリックを考えるには、難しい世の中になってきているということは分ってきていることではないだろうか?
 というのも、
「今の時代は、科学が発達していて、昔からいわれているトリックが通用しなくなってきた」
 と言えるのではないだろうか?
 例えば、
「死体損壊トリック」
 と言われるもので、
「顔のない死体の9トリック」
 と言われるものがそうであった。
「顔を分からないように、めちゃくちゃに潰していたり」
「首を隠したり」
 あるいは、
「指紋のある手首を切り取っていたり」
 ということで、被害者の身元を分からないようにするトリックがあった。
 このトリックの場合には、ある公式が存在するという、それは、
「被害者と加害者が入れ替わる」
 という公式である。
 このようなストーリーの小説は、
「定番」
 ということで、よく使われた。
 この場合は、シチュエーションを変えることで、盗作ではないということになっていたが、あくまでも、時代背景が、戦前であったり、戦後すぐのような時代であれば、そのバリエーションで、何とか、
「盗作ではない」
 とされてきたのだろう。
 つまりは、探偵小説を書くということは、
「いかに、バリエーションを利かせるか」
 ということであり、
「バリエーションさえ利かせれば、いくつかのトリックのパターンが同じであっても、それは決して、盗作ではない」
 と言えるであろう。
 ただ、まったく同じでなければいいのかということは、難しいところであり、読者によっては、
「盗作だ」
 と言い始めたことで、まわりも騒ぎ始め、問題になることもあるだろう。
 いくら法律で決まっているということでも、その解釈に関しては、人それぞれで、裁判になれば、解釈が別れたり、場合によっては、話が変わってくることだってあるだろう。
 それを思うと、
「盗作問題」
 というのは、昔から難しく、今のように、トリックが限られてくる時代においては、いかに考えるかということも、大きな問題であった。
 作家というのが、どういう作風なのか、果たして、どう考えればいいのか、このあたりも、難しいところであろう。
 そんな中の先駆者、いわゆる、
「パイオニア」
 として考えるには、
 一つは、
「自己分析」
 というものが必要であろう。
「何かを作るのに、自分というのは、この際関係ないのではないか?」
 という人もいるかも知れないが、果たしてそうなのだろうか?
「いやいや、自分で自分が分からないと、自分が何に向いているのか?」
 ということが分からないだろう。
 自分が分からないと、何かを発想するにしても、前述のように、
「ある程度まですべてを分かっていなければ、それが、本当にパイオニアなのかどうかということは分らない」
 と言えるのではないだろうか?
 要するに、
「比較対象が自分だ」
 ということになるのかも知れない。
「自分を見る鏡として、本当に自分を使うというのがいいことなのか?」
 と考えるであろう。
 自己分析として、一番最初にすべきことは、
「長所と短所の洗い出し」
 ではないだろうか?
 長所と短所というものは、いろいろな見方がある。大きく分けると2つであろうか?
 一つは、
「長所は短所の、短所は長所の裏返し」
 ということである。
 これは、演劇などで見られるような、
「どんでん返し」
 という発想に似ているかも知れない。
 よく言葉でも、
「裏を返すと」
 という言葉があるが、長所の裏には、短所があるという考えである。
 また、もう一つの考え方として、
「長所と短所は紙一重」
 というではないか?
 例えば、野球などをやっていて、バッターには、
「得意なコースと苦手なコースの二つがある」
 と言われる。
 しかも、紙一重と言われるように、得意なコースの近くに、苦手なコースがあるということを示している。
 これは、実はピッチャーにとっては、辛いことでもある。
 つまり、相手の苦手なコースが分かっていて、そこに投げ込んだつもりでも、ちょっとでも、コントロールが狂ってしまったりすれば、相手の得意なコースになげてしまうことになりかねない。
「待ってました」
 とばかりに、スタンドに放り込まれることもえてしてあるわけだが、相手を討ち取るためには、苦手なコースをつかなければ、抑えることができないということなので、危険を押してでも、投げなければいけないということになるであろう。
 それを考えると、
「野球は、紙一重の勝負」
 と言えるのではないだろうか?
 ただ、これは野球だけに限ったことではない。格闘技であっても、他の球技にも言えることだ。
 それを思うと、長所と短所を相手ももちろんながら、自分でも理解しておく必要があるということだ。
 それが、ひいては練習方法であったり、自分のこれからの道筋に、導かれるということになるであろう。
 つまりは、
「短所を少しでも、克服するという方に、重きを置くのか?」
 あるいは。
「長所を伸ばすことで、短所に目を瞑ろうと考えるか?」
 ということにも関わってくるに違いない。
「短所を克服する」
 ということは、
「一番の成長の近道ではないか?」
 と考えるが、果たしてそうであろうか?
 確かに短所を克服することで、相手にそこを突かれることがなくなるので、一見、それでよさそうな気がするが、せっかく長所も分かっているのに、そこを延ばそうとしないと、成績が伸びるということは、おぼつかないのかも知れない。
 ただ、前述の、
「長所と短所が紙一重」
 ということが間違いないとすれば、短所を克服することで、相手に、どこに投げればいいのか分からない状態からだと、自分の得意なコースに投げてくれる可能性もあるという意味では、一応の考え方もあるだろう。
 ただ、長所を伸ばすということは、今までであれば、得意なコースに来た球は、4割の可能性で、捉えることができるとして、最終的な打率が、3割前後だとすれば、もし、得意なコースを5割以上の確率で打ち返すことができれば、3割5分というのも夢ではなくなるわけだ。
 苦手なコースの克服では、ここまで飛躍的な打率向上とはいかないだろう。ある意味、
作品名:中二病の犯罪 作家名:森本晃次