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中二病の犯罪

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「意識というものをどのように考えるか?」
 ということであるが。
 隆は、一つの考え方として、
「石ころというものが、灯台下暗しであれば、その反対である意識は、遠くにあっても、その絶対的な力は、不変なものだ」
 という考え方ができるのではないかと思うのだった。
 目の前にあって、その存在を意識しない。無ではないのに、意識することができないほど小さなものというのは、実は怖いものだといえるだろう、
 例えば、
「昔、ある天体学者が、目に見えない星というものを、創造したことがあった」
 というのである。
 それは、どういうことなのかというと、
「星というのは、自分から自ら光を放つか、あるいは、光っている星の光を反射させることで光るものである」
 というのが、一般的に言われていることであった。
 しかし、星の中には、
「自ら光を放つこともなく、反射されることもない。つまりは、光を吸収するという星がある」
 ということであった。
 つまり、それらの星は、まわりからは絶対に見えない。そばに来ても、そこに存在しているということが分からない。
 つまりは、
「意識もなく、見ることもできない」
 という星である。
 どんなに小さな星であっても、そんな星が近くにくれば、その引力圏内に入ってしまうと、引き寄せられて、破壊されてしまうことがあるだろう。
 それを思うと、
「意識できないということがどれほど恐ろしいということになるのか、それを考えると、この暗黒の星の恐ろしさや、意識しないで、そのまま記憶に向かうものがあるというのは、実はもっとも、恐ろしいことになる」
 ということを分かっているということだろうか?
 そんな暗黒の星を、いかに意識させるかということが問題になるわけだが、それも、人間社会において、同じことである。
 視界と、意識のどちらが大切かということを考えてしまう。
 石ころが、視界であり、夢幻の類が、意識だとすると、暗黒の星のように、どちらもないものは、本当に世の中に存在するということになるのだろうか?
 それを考えると、
「灯台下暗しの発想も、まんざらの考えでもないといえるだろう」
 さて、そんなことを考えているのが、10代の頃であり、それだけ、発想の幅が広がっていて、自分の中で、無視できないものが何であるかということが分かってくるようになった。
 だから、
「意識」と「視界」
 という問題。
 それだけに限らず、灯台下暗しであったり、暗黒の星の問題などが絡んできて、
「無限の力」
 であったり、
「限りなくゼロに近い」
 というものであったりと、発想だけは、たくさん膨らんでくる。
 それを整理できているかいないのか、自分でもよく分かっていなかった。
 それを思うと、発想がカオスになってくるのを感じるのであった。

                 先駆者

 20代くらいになってくると、
「何かを創造するということが、どれほど無限の可能性を秘めているか?」
 ということを考えるようになった。
 特に、小説であったり、マンガなどに興味を持っていて、それを、製作ということから考えるようになった。
 隆は、やはり小説をこれからも書いていくということを考えたのだが、別にマンガが嫌いだというわけでもないが、一番感じたのは、
「絵のタッチ」
 というものが、どうしても、皆似ているということを感じたということであった。
 どうしても、似ているものを見ると、
「二番煎じだ」
 と感じ、特に、同じジャンルの作品に、同じタッチが多いのは、どうしても、誰かのマネをしているという感覚になっているということを感じるからだった。
 二番煎じというのは、隆の中で一番、
「許せない」
 と感じるようなことであった。
「人のマネ」
 といってしまっては、身も蓋もないが、そういう以外に、どう表現すればいいというのだろうか?
 そんなことを考えていると、
「絵を描いているということは、無意識に、誰かのタッチを真似てしまっているのではないか?」
 と考えるのであった。
 つまり、実際に、誰かのタッチを真似ているつもりはなくとも、そう感じてしまうのは、やはり、
「自分が、人のマネをしたくない」
 という意識を強く持っているからだろう。
 そう、ここでも、意識というものが働くのだ。
 この時に意識も、力の強いものであり、
「人のマネが嫌だ」
 という意識を強く持っているということを、誰に表すのかと考えると、それは、
「自分に対してのことだ」
 と言えるのではないだろうか?
 人のマネを嫌だと感じるのは、ある意味、
「無意識に、視界だけに頼りたくない」
 という思いがあってのことなのかも知れない。
 視界というものを頼りにすると、自分が、その場でどうすればいいのかということが分からなくなる。
 意識というものが伴わないと、視界だけでは、どうにもならない。
 だからこそ、意識というものがしっかりしていないと、見えているものが、まったく違った意識をつかさどるようになり、結果、誤った判断をしてしまうことに繋がらないともいえないだろう。
 そのためには、
「自分自身で、自信をつける」
 ということが大切なのだ。
 自信をつけるということは、人に対してどうすればいいのかということだけではなく、自分の中の意識をいかに、コントロールできるかということが決めてだといえるのではないだろうか?
 そのために、20代になって考えるようになったのは、
「難しいことではあるが」
 という意味で、
「自分が、先駆者になるということ」
 であった。
 先駆者というのは、
「何かを始める際に、誰にもその道を通ったことのない。まっさらなものを発見する」
 ということである。
 そもそも、それが、
「まだ、誰も踏み入れていないものだ」
 ということは、
「すべてのことを分かっていなければ、分からない」
 といえるであろう。
 要するに、そのジャンルにおいて、他に足を踏み入れたことがないということを証明するには、そのジャンルについて、ほぼすべてを理解しておかなければいけない。
 ということになるのだ。
 それを考えると、特に最近で叫ばれていることとして、
「個人情報保護」
 などというのがあるが、
「著作権などの保護」
 ということも大いに叫ばれているということである。
 つまり、最初に開発したり、見つけたものには、著作権のようなものがあり、それは、その人の財産と同じで、保護されるべきものである。
「登録商標」
 などというものも同じであり、それらを保護するために、いかに法整備を保つかということが問題になるのであった。
「先駆者」
 という考えはそこに直結する問題で、開発者、あるいは、発見者なるものは、その法律にて、半永久的に守られるべきものであるということだ。
 もちろん、著作権にも時効のようなものがあり、例えば、著作者の死後50年経てば、その著作権は、消失し、自由に配布や使用ができるというものだ。
 かといって、無制限にというわけではない。模倣したものを勝手に売るというのは、ダメであろうし、少なくとも、著作者に、
「敬意を表する」
 という必要があるだろう。
作品名:中二病の犯罪 作家名:森本晃次