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中二病の犯罪

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 というわけで、これほど怖いことはないといえるだろう。
 それはまさしく、前述の話と同じで、まるで、
「合わせ鏡」
 のような、
「永遠につづく、負のスパイラル」
 のようなものではないかと言えるのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、小説を書いているうえで、急に見えていないことがあるのを想像していた。
 というのは、
「見えているはずのものが見えていない」
 という感覚である。
 見えているはずのものが見えていないというのは、本当は見えているということであろう。
 実際に見えないことであれば、こんな発想が生まれるわけもなく、完全に見えていないものではない。
 それなのに、意識しないということは、
「普段から見ているもので、まったく意識することではない」
 ということから、
「本当に見えているのもが、見えていないというのが、何なのか?」
 としばし、考えるのだった。
 ただ、その思いは、最初だけで、一度感じてしまうと、その定義において、何のことかというのは、瞬時にして理解できることであったのだ。
 それは、石ころのような発想であり、つまりは、
「普段からそこにあっても、まったく不思議のないもの」
 石ころに目があったとすれば、人間に見つめられて、自分に手足がない。逃げることもできないので、金縛りに遭ってしまうのだが、相手は、自分のことを、石ころ以外の何者でもないと思っているから、まったく、意識することなく、視線だけがそこに存在しているのであった。
 石ころには、表情があるわけではない。しかも、ほとんどの場合、石ころが単独でそこに存在しているということはないので、見ているのは、いつも、
「その他大勢」
 だったのだ。
 その様子を見ていると、
「目の前にあるはずのものが、消えてしまうわけでもないのに、まったく意識から消えてしまっている」
 と考える。
 そもそも、目の前にあるものを見ると、まずは、意識することになる。そこから、自分がどこにいるのかということであったり、その場所を自分なりに確認したりと、理解を深めようとするはずなのだが、意識がないのだから、それも仕方のないことではないだろうか?
 しかし、石ころの存在というのは、目の前に広がっている光景の中で、唯一意識することなく、視覚に飛び込んでくるものではないだろうか?
 意識していないと言い切れないかも知れないが、
「意識しようとしても、できていない」
 というのが、正直なところではないだろうか?
 確かに意識をしようという思いはあるのだが、意識できない。それがなぜなのかと考えていると、
「おそらく、向こうから見えているはずのものを、瞬時に感じることができないからではないか?」
 と感じるのだ。
 意識しようと思うとできなくもないが、意識してしまうと、自分が石ころになってしまい、その世界から抜けられなくなり、自分の存在がこの世から消えてしまうような気がするのだ。
 普通であれば、
「存在した」
 という事実までも、消えてしまうものではないかと思うが、石ころに変わってしまうと、その存在したという事実は消えることなく、行方不明者として、数えられることになるのだろう。
 警察に届け出ても、
「どうせまともに探そうとはしないはずだ」
 というのも、
「警察というところは、捜索願を受理はしてくれるが、実際に捜査を基本的にするということはない」
 と言われている。
 犯罪性があるかないかということが一番の問題で、
「何らかの犯罪に巻き込まれた」
 ということでもない限り、捜査は基本的にしないだろう。
 よほど、
「自殺の可能性が濃厚だ」
 ということでもない限り、犯罪に関係がなければ、問題となることはないだろう。
 それを考えると、警察というもの、実にいい加減なところかということが分かってくる。
 そのくせ、力だけは無用なくらいに持っていて、なぜ、無用かというと、
「その力を、庶民のために使うわけではない」
 ということであった。
 あくまでも、犯罪捜査のために必要な力として、締め付けるのは、一般市民だったりする。
 下手をすれば、
「これは殺人事件の捜査だ」
 ということを理由に、プライバシーで本来は保護されなければいけないことであっても、警察の捜査が優先するのか、言わなくてもいいはずのことを、言わなければいけなくなる。
 本来、憲法で、
「基本的人権の保障」
 が認められていて、
「法の下の平等」
 も同じく認められている。
 警察官だからといって、何でもかんでも優先されるというと、大間違いなのだ。
 警察官の公務という理由ですべてが認められてしまうと、
「基本的人権」
 というものが、まったく機能しなくなる。
 これで、本当にいいのだろうか?
 そんなことを考えていると、警察権力でもどうすることもできないこととして、
「石ころ機能」
 というものを有する人間がいてもいいような気がする。
 目の前にいても、その人物が、まったく気づかれることのない存在。本来なら、警察捜査の方に、いてほしいくらいの存在であるが、この存在は、庶民が共有して、しかるべきものではないだろうか?
 それを考えると、
「石ころ」
 という現象がどういうものなのかということを、今一度考えてみる必要があるようで、考えさせられることも結構あったりするだろう。
 そんな石ころが点在している部分に、思いを馳せていると、見えている部分と見えない部分の二つが存在していることが分かる。
「見えているのに、意識しない石ころのような存在」
 あるいは、逆に、
「見えてはいないが、意識できるものがあり、その存在感が、威圧を放っている」
 というものの二つである。
 前者は、すでに前述のとおりであるが、後者は、何か、特殊な力を秘めているような気がするのだ。
 前者は、まったく何もない力のように思え、ただ、それは、合せ鏡の最終章であるかのように、
「限りなくゼロに近い」
 という力なのであろう。
 しかし、逆に、
「後者の場合は、その力の最期には何があるのか?」
 ということは、計り知れない。
 どちらかというと、その力は無限大であり、言い換えれば、
「限りなく無限大に近い」
 といってもいいのではないだろうか?
 それを考えると、
「意識というものが、視界よりも、どれほどの強さなのか?」
 ということを感じさせるものだろう。
 逆にいうと、
「視界というものほど、あてにならないものはない」
 といってもいいかも知れない。
 それが、
「限りなくゼロに近いものだ」
 と言えるのかも知れない。
 そんなことを考えると、前者と後者は、
「正反対のものだ」
 と言えるかも知れないが、実際には、
「まったく違うものだ」
 といってもいいだろう。
 ただ、対称というわけではなく、明らかに後者の方が、無限の力を秘めているかも知れないということで、その力は大きいといってもいいだろう。
 それを考えると、目に見えない力が働いていると考える時、視界よりもはるかに強い、
「意識」
 というものを、記憶では、決して凌駕できないのだろうと思うのだった。
 ということは、
作品名:中二病の犯罪 作家名:森本晃次