中二病の犯罪
そうなると、後悔と自責の念で、かなりの間、辛い思いをすることになってしまい、そこから立ち直るには、どんなに早くとも、三か月、下手をすれば、一年以上、辛い思いをすることになるだろう。
そうなると、
「次に誰かと付き合う時は、二度と同じような思いはしたくない:
と思うようになるまで、つまりは、
「もう一度誰かと付き合う」
という気持ちになるまでには、ほとんど立ち直っていなければならないだろう。
ということになると、本当に別れた相手から、気持ちが離れるところまでということになれば、少なくとも、1年以上の歳月が必要となる。
しかも、
「二度と同じ過ちを繰り返したくない」
と思っていても、またしても、
「繰り返すかも知れない」
と思い込むまでに、果たしてどれくらいの歳月が必要かということになると、それははかり知れない。
そう考えると、
「少なくとも、数年、早くとも5年くらいは掛かるのではないか?」
と考えるのだ。
小説を書いている自分、しかも、まだ中学生の頃にそんな感情に陥るということは不可能に近い。
逆算すると、まだ、十歳にも満たない年齢に、恋をして、大失恋をしていないと計算が合わないことになるからだ。
それでも、隆はそんな小説を書いていた。そういう意味では、決して経験からのことではない。
だが、こんな小説は、
「少なくとも経験からでないと書けないものではないだろうか?」
そのことは、隆の方で感じていたことのようだった。
それでも、こんな小説が書けるということは、
「隆が、女性を主人公にして、女性の気持ちになって書けるからなのかも知れない」
と言えるのではないだろうか。
というのも、隆の小説には、女性の目から書いていることで、女性視点でしか感じることができないようなことが、随所にちりばめられていた。
そのことを、隆自身は、感じていたわけではなかった。
「俺が感じることくらいは、誰もが感じていることなんだろうな」
ということを、ずっと感じていたので、彼の知らないところで、彼の小説が、密かに注目されていたなど、本人のまったく知るところえはなかったのだ。
それでも、
「せっかく書いたんだから、どこか、文学新人賞にでも送ろう」
とばかりに、書いたものをいくつかの出版社に送ったりはしていた。
もちろん、同じ小説を複数の出版社の新人賞に応募するというのは、応募に対してのルール違反なので、全部の出版社に、まったく別の作品を送っていた。
そのうち、数社では、編集者の目に留まっていたのである。
ただ、それは、あくまでも、この作品を書いたのが、中学生だということからのことであって、作品自体に注目されたわけではない。
作品自体は、その他大勢の作品と変わりなく、文章作法なども、まだまだ中学生ということもあって、
「甘さ」
も目立っていたのだ。
だから、出版社側からすれば、
「中学生にしては、目の付け所がユニークで、普通ならあの年でテーマとできるはずのない内容を書くことができたのはすごいことだ。しかし、作品に関しては、特記するものではないだろう」
ということであった。
なぜ、作品を特記できないのかというと、
「確かに、彼の作品の目の付け所はすごいのだが、逆にそれだけに、経験をしていないということで、作品としては、これ以上軽い物はない。致命的だといってもいい」
ということだ。
「天は二物を与えず」
というが、
「アイデアという素晴らしさを与えたおかげで、経験gないという致命的んことになってしまった」
ということで、それでも、一つに特化していることに変わりはなく、それが、大事なことだといえるのではないだろうか?
石ころ現象
自分が女性になったような小説を書いていると、そこから派生して、いろいろな発想を描けるようになってきた。
特に女性という目で見るようになってから、自分というものを、客観的に見ることができるようになったのだ。
ただ、隆の小説で、主人公を、
「自分」
という形の第一人称で置くということはあまりなかった。
主人公は第三人称であることが多く、
「彼女」
という形で描いていた。
しかし、実際には、自分という考え方であり、それが、客観的に見ることができる理由だったのだ。
小説の中でどうしても、主人公としての人物は、
「中二病的な人間」
ということになっている。
男女どちらも書くことができるが、正直、書いていて、その雰囲気が中途半端であるように思えてならなかった。
だから、書いていて、
「もっと客観的に」
と思ってしまい、どんどん視点が遠ざかってしまうのを感じるのだ。
そうすれば、
「全体が見える」
という意味ではいいのだろうが、全体が見えてくると、どうしても、登場人物、一人一人の関係性がハッキリすることができず、考えられないように思えるのだった。
だが、そんな客観性にも、
「限界」
というものがあり、それ以上遠くを見ようとすると、今度はまったく別の世界が開けてくるのを感じるのだ、
その別の世界が、
「次章へのつなぎ」
として感じるのであれば、それはそれで、小説の節目として、いいのではないかと思うのだった。
だから、結界を超えるまでを一つの章だとするならば、見えている光景を、
「いかに広く見せるか?」
ということが考えられるようになる。
遠くに見えていたはずの光景が、今度は近くに見えるようになったり、逆に、今まで自分が見えていた光景が、今度は、その光景の中の一つから、こちらを見るようになるのだった。
「視点の逆転」
という発想は、小説を書く上で、結構、重要な部分ではないかと思っていたので、実は、章をまたぐ時に、広がるはずの情景が、実は、却って狭まっている場合がある。
ただ、これも、執筆のテクニックの一つであり、小説を書いていると、
「偶然」
という言葉も結構存在し、自分でも気づかぬうちにやっていたことが、
「実は重要だ」
ということで、自分の中で、それ以降の執筆で重要要件として浮上してくることになるのだった。
だが、それも悪いことではなく、そんな偶然が、どんどん増えることは、自分でもありがたかった。
そんな中において、隆が章をまたぐときに気を付けているのが、
「視点の転換」
であった。
今まで見ていた視点とまったく違った転換、いや、
「逆の視点」
という見方を一度するようになると、次第に、その方法が、
「自分の小説作法」
のように、感じられるのだった。
実際に、小説を書いていると、
「最初に見た視点が、逆の視点になると、小さく見えてきた」
と感じるようになった。
そこには、いくつかの理由が存在しているわけだが、一つとして、
「限りなくゼロに近くなっている」
という発想であった。
これは、
「マトリョシカ人形」
であったり、
「合わせ鏡」
と言われる現象のように、無限に続くものが、どんどん小さくなっていくのだが、ゼロになることはなく、理論上、
「限りなくゼロに近い状態」
というまま、永遠に続くものだという定義がなされるのではないだろうか。