悪い菌
と宣伝することによって、その土地に移民させることによって、食料、人口問題を一気に解決させようという腹積もりだったのだ。
満州国というと、広大な土地があり、石油や石炭などの資源もあるというような話を聴いていたが、実際には、あまり良品ではないようで、
「軍事にはなかなか使えない」
と言われているということであった。
実際に、日本政府は移民を募るのに、満州をいかにも、王道楽土だと宣伝し、五族共栄ということで、
「漢族、満州族、モンゴル人、日本人、朝鮮人」
という5つの民族が、ともに栄えていくということをスローガンとしていた。
だから、日本国で貧乏していたり、家を継ぐことのできない次男以下の兄弟が、こぞって、満州に楽園を求めて渡るのだった。
しかし、元々満州にいた人からすれば、土地を取られたような気がするだろう。
しかも、中国側にて、
「日本人に対して、土地を売ったり、貸したりすれば、売国奴扱いとなり、死刑に処せられる」
という法律までできたものだから、満州国ができる前の、中華民国領土の時は、日本人は不当な扱いを受けていた。
日本国の権益のあった満州鉄道の沿線に、中国側が線路を敷いて、そちらで営業を始めたものだから、一気に満鉄の売り上げは下降してしまう。さらに、中国人による日本人虐殺事件や暗殺事件が、どんどん増えてくるようになると、国内の人口問題が絡んできて、それらを一挙に解決する作戦として、
「満州事変」
が考えられたのだ。
確かに、日本軍による、
「自作自演」
だったのかも知れないが、果たしてそれを額面通りに受け取ってもいいのだろうか?
自作自演だとしても、そこまで追い込んだのは、当時の国民党政府ではないかということであった。
だから、日本国も満州全土を占領した時、
「満州国建国」
と行ったのは、
「満州国は、あくまでも独立国であり、主権は、満州国政府にある」
と言っていたのだ。
ただ、内情は、
「傀儡国家」
であり、決定権は満州国政府にはなく、最終的な決定権は、関東軍に一任されるということだったのだ。
特に満州国というのは、
「帝国」
である。
最初こそ、執政であったが、翌年からは、皇帝ということで、清朝最後の皇帝であった、
「愛新覚羅溥儀」
による、専制君主国のはずなのだが、その溥儀にも、決定権はなく、あくまでも、最終決定は、関東軍参謀本部によるものだったのであろう。
もっとも、軍のトップは、
「日本の天皇」
であるから、基本的に、
「日本の植民地」
といってもよかったのだろうが、結果として、
「日本国における傀儡政権」
ということに落ち着いたのだ。
日本は、朝鮮と台湾を併合したが、これは植民地と言えるのかどうか、難しいところである。
「外地における、日本の領土」
ということで、日本人国籍なのか、権利義務などはどうなるのか、そのあたりが、大きな問題となるのではないだろうか?
日本では、そもそも、今から150年前までは、鎖国状態だったのだ。その当時はちょうど、列強による植民地争奪戦が行われていて、明治日本が、乗り出すことができるようになった時には、世界各国は、欧米列強に占領されていたのだ。それを武力で奪うくらいしか、植民地獲得はままならない。それよりも、
「権益を強める」
ということで、中国をターゲットにして、いろいろ暗躍をしていたのであろう。
日本に、いわゆる、ペリー提督率いる、
「黒船来航」
によって、日本は、砲艦外交による脅しのような形を受けた。
それまでは、
「日本の窓口は長崎だから、長崎に行ってくれ」
ということで追い払っていたのだが、黒船は、
「大統領の親書」
というものを持参してきたので、そう簡単に引き下がれないということになったのだ。
そこで、
「1年間という猶予」
を貰って、再来航するまでに、国の行く末を決めなければいけなくなった。
結果、再度来航したアメリカに対し、
「江戸の町を焼き払う」
とでもいわれたのか、脅しに屈し、条約を結ぶことになった。
いくつかの港の開放と、アメリカの物資補給のために港を使うことを許したことで、事実上の鎖国は終わりを告げたのであった。
ついで、今度は、本格的な通商条約。といっても、完全な不平等条約まで結ぶことになったのだが、他の列強にも押されて、結局、他の国とも似たような条約を結ばされた。
それからは、国内は、外国を打ち払うという強硬派の、
「攘夷派」
と、外国に追いつけ追い越せの派とに分かれ、国を二分することになる。
そのうち、攘夷派にも、
「攘夷は無理で、日本の国を強くしなければいけない」
という発想から、
「尊王倒幕」
という、
「幕府を倒して、天皇中心の国家をつくる」
という方向に舵を切りなおしたのであった。
そんな時代において、なかなか不平等条約を改正できない。まずは、欧米化と、議会政治の確立が必要だったのだ。
欧米化には、さまざまな滑稽なこともあった。
キチンと血抜きもできていない状態での
「牛鍋」
であったり、作法も知らない状況で、
「鹿鳴館においての、欧米人のもてなし」
など、かなり、ちぐはぐなところもあったが、それなりに頑張っていたのも事実だった。
国家は、
「殖産興業」
「富国強兵」
という、
「国家を産業によって富ませて、兵役を儲け、強い国家体制を築く」
というスローガンによって、欧米での研究使節団などによって、政治体制を学び、議会政治の何たるか。さらに、憲法の明文化などというものを学んできたことで、いよいよ、近代明治政府の誕生となるわけだった。
憲法を発布し、帝国議会も開かれて、やっと、一歩前進したという形の日本が出来上がったのだった。
それでも、不平等条約改正までの道のりは少しあるようで、そう簡単にはいかないのも事実だったようだ。
それでも、明治時代の政治家は、今の政治家などと違い、しっかりと、国を憂いていて、国家の行く末を見据えていた。
中には、甘い汁を吸うという輩もいただろうが、今ほどひどいものではなかったのではないだろうか?
ハッキリとは分からないが、
「今ほど最低の国家はなかっただろう」
と言えるのではないか。
それは、戦争に突き進んでいった、大正末期から、昭和初期のあの動乱の時代でもそうであったに違いない。今の人はアメリカの押し付けられた民主主義のために、戦争を引き起こした政府に対していいイメージを持たないというような教育を受けているが、実際に調べてみると、そんなことはない。それこそ、
「知らない方が恥だ」
ということを、思い知ればいいと感じるのだった。
夢の正体
そんな時代において、今回体調を壊したのは、里村桃子という女性だった。彼女は、出版社に勤める編集者で、今年、33歳になっていた。一人暮らしをしていて、まだ独身だった。
彼氏は、3年前から付き合っている人がいるが、お互いに結婚を口にしない関係ということもあって、まわりの二人の関係を知っている人も、
「あの二人は、結婚しないかも知れない」