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悪い菌

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「心細くなるという点においては、肉体的であっても、精神的であっても、大して違わない」
 ということになるのであり、
「心細さの元となるところをいじるのは、肉体的な疲れであっても、精神的な疲れであっても、関係なく、それぞれが刺激し合うようになり、心細くなってくるものではないだろうか?」
 ということで、結局、
「どんな疲れであっても、心細さということから逃れることはできないのだ」
 ということなのであろう。
 それを考えると、心細さを考える時に、一つ感じるのは、
「反発性」
 という思いであった。
 人というのは、
「やせ我慢」
 をするものである。
 特に、自分が好きになった相手であったり、自分を慕ってくれたり、頼ってくれる相手には、
「弱みは見せられない」
 と思うものなのだ。
 だから、相手が心細くなっている時は、その話を聴いてやり、わがままを言いたい時、他の人に対しての時は、少し厳しい言い回しになったとしても、
「そんなに寂しくなった時は、この俺がそばにいてやる」
 という言葉を掛けるようにしている。
 少し格好よすぎるかも知れないが、それはそれで本心なのである。
 あくまでも、本人の気持ちとしては、
「ずっと、そばにいてやると口では言っているが、基本は、その人の行動を縛るつもりはない。精神的に心細くなったり、不安になった時、いつもそばにいるのが自分なんだと思ってもらっていれば、それでいい」
 という思いであった。
 これは、なかなか若い頃にはできないものだ。
 なぜかというと、若い時分ほど、
「時間がない」
 と感じるからであろう。
 ここでいう
「時間がない」
 というのは、頭の上に、
「今の自分には」
 というものがつくのだ。
 つまり、
「若い時間は、そんなに続くわけではない」
 という自覚がある。
 これを逆の意味で言えば、
「若いうちのイケメンである時期しか、自分は女の子からモテないんだ。だから、後数年くらいだろうか?」
 と考えてしまう。
 確かに、若くて、
「モテる」
 という時代は、人生のうちでの若干の期間なのかも知れない。
 本当のイケメンであれば、中学時代から、20代くらいまでの、十数年くらいは、モテるかも知れないが、普通であれば、大学時代から、二十代前半くらいの、5年ちょっとくらいがいいところではないだろうか?
 それを思うと、
「あっという間に過ぎてしまう」
 という思いがあるから、焦る人は焦るのかも知れない。
「では、元々、モテた経験もない人はどうだろう?」
 正直、
「モテる」
 ということに関しては、ムダな時期を過ごしていると考えるのではないだろうか?
 だが、人によっては、その、
「無駄な時間」
 というものを、自分なりに有意義に過ごしている人もいるだろう。
「何もこの時期は、モテるためだけにあるんじゃない」
 という思いで、いろいろな勉強に勤しんでみたり、今後の自分の糧となるものを育むということに、舵を切っている人だっているだろう。
 つまり、逆にいえば、その期間を、
「モテている」
 というだけで、楽しく過ごすという、一種の受動的な人生と、
「自分のための教養を自らで取得していく」
 という、自発的な人生と、どっちがいいかということである。
 そもそも、自分でも分かっていたはずではないか。
「モテるための、時期というのは、短いものだ」
 ということをである。
 焦ってみて、何とか彼女ができたとすれば、どう感じるだろう。
「俺はやっぱりモテるんだ」
 と自惚れてしまうと、せっかく焦ってまで、短い時期なんだ。
 ということを自覚したはずのことが、
「自分の中で水の泡になってしまう」
 ということになるのだ。
 モテていることで、盲目になりかかってしまっているのだろう。
 しかし。それでも、まだ自覚は残っている。
「俺はこの状態でいいのか?」
 ということをである。
 それが、心の葛藤となって、本当にそれでいいのかどうか、自問自答を繰り返す。自分の中で、
「押しては消える波」
 というものが出来上がって、その波が砕け散るのを見ようとしない。
 目をそらして、音だけ聴いていても感じる恐怖を、
「何を好き好んで、自分から見たりするものか」
 という思いがあるからである。
 特に青年期における心の葛藤には、
「結婚適齢期」
 という、今では半分死後になっている言葉に対し、気持ちの中では、
「結婚願望」
 というものがあるに違いない。
 その結婚願望は、年齢とともに、気持ちが変わっていく。未成年の頃は、
「憧れ」
 であり、手が届かない存在ではないだろうか。
 18歳から、20代前半くらいには、それが少しずつ具体的になってきて、相手がいれば、その人との結婚を夢見ることになり、相手がいなければ、必死になって探そうとする。
 その時に、自分の中で、
「リミット」
 という年齢を決めているのかも知れない。
 それは、自分が、
「絶頂である」
 という時期を考えた時、その時期から逆算する形で、
「後、何年」
 という、一種の目標を持つことになるだろう。
 ハッキリとしたものでなくとも、時期を曖昧なまま、目標だけを定める人もいるが、結局、その時期は、次第に固まってくるので、そんなに意識することはないのだ。
 しかし、その時期を通り越し、結婚に至らなかったとする。
 その理由はいくらもあるだろう。
「結婚適齢期に達したにも関わらず、相手が曖昧な態度を取っている」
 という場合、
「逆に、自分が、こんなはずではなかったと感じる場合」
 この場合には、いくつかあるだろう。
 相手本人に対して、
「こんなはずではなかった」
 と、
「こんなはずではない」
 ということを相手に対してではなく、自分の心境が結婚というものに対して疑問を持つようになった時。
 そして、
「自分がまわりのことを必要以上に気づくようになったり、世の中の限界のようなものが感じられるようになった時」
 というものがある。

                 限界

 自信過剰な人間でも、そうではない人間でも、人生のうちで何回か、自分が感じている自分よりも、能力が高くなっていると感じる時がある。
 特に、この20代前半は、ほとんどの人が一度は感じるものではないかと思うのだが、思い過ごしであろうか。
 ただ、その時に、自分の能力が、先の自分を予見してしまって、さらに、自分の将来が見えてくるようになると、それをどこかで否定する自分がいるが、その否定する大義名分として、
「世の中の限界が見えてきた」
 と感じるものであろう。
 世の中の限界というものをいかに感じるのかというと、
「限界というものを感じた時、何に対して嫌なのかということを感じるとしよう。その時に、自分だけは限界がないと感じるだろう。そう思うことが、自分を予見してしまったことを否定する唯一の他義名分ではないか?」
 と感じるのだった。
 それを考えていると、
「世の中の限界と、自分の限界。天秤にかけると、どっちが思いのだろう?」
 と考えてしまう。
 普通なら、答えは決まっているはずなのに、青年期における、ある意味、
「絶頂期」
作品名:悪い菌 作家名:森本晃次