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悪い菌

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 ということであり、
「じゃあ、どうやって命を絶つか?」
 ということを考えるようになる。
 しかし、実際に、
「楽に死ねる」
 などというものは、そうもいかないのが、実情なのだろう。
 昔のマンガなどで、死神が出てくるマンガがあった。妖怪もののマンガで死神というと、どちらかというと、
「ギャグ性が豊かな死神」
 というイメージが多いような気がする。
 というのも、死神自体、いや、それよりも、
「死後の世界」
 というか、
「あの世」
 というものに、
「ノルマ」
 のようなものがあるというのだ。
 しかし、これはある意味おかしな発想であり、本当であれば、
「死後の世界に行く人間というのは、最初から運命が決まっていて、その日の死者の数も決まっている」
 ということになる。
 だから、死神の仕事は、
「死んだ人間を、ちゃんと迷うことなく、死後の世界に導くというのが本来の仕事であり、言われているような、死神が行くと、人が死ぬというのであれば、本末転倒だ」
 ということになるだろう。
 しかし、
「ノルマ」
 というものがあるのだとすれば、そのノルマというのは、
「死ぬ人間というは、決まっているわけではなく、少しでも死神が仕事をすれば、死の世界に送る人間が増える」
 ということで、あの世に死んだ人間が増えると、何がいいのかということは分からないが、数多く、あの世に送り込むことを仕事としている以上、何かがあるのだろう。
 だから、宗教的にいえば、
「死神はあくまでも、死後の世界への案内人であり、死を呼ぶという立場ではない。そういわれるようになったのだとすれば、これは、座敷わらしの発想のように、見ると、死を迎えるために、死神が待っている」
 という発想にはならないだろう。
 もし、そう感じられるとすれば、似たような存在で、
「見ると、死を迎えてしまう」
 というものの存在に近づくとすれば、そこにあるのは、
「ドッペルゲンガー」
 という存在ではないだろうか?
 そう考えると、このお話も、
「どこかで話が繋がっている」
 ということになるであろう。
 ドッペルゲンガーというものは、まさに、
「見ると、近い将来、命を絶たれる」
 と言われているではないか?
 そういう意味でいけば、
「ドッペルゲンガーというものは、自分自身や、自分の身近な者にだけ通じる、死神のようではないか」
 と言える気がするのだった。
 ドッペルゲンガーの正体が、どういうものなのかというのは分からない。
「脳に障害があって、そのため、幻を見ていて、死にたくなるのもそのせいではないか?」
 ともいわれている。
 ただ、今まで実際に、著名人の中に、
「ドッペルゲンガーを見たので、自分も死ぬことになるかも知れない」
 と思っていて、実際に死んだ人もいる。
 自殺をした人もいれば、暗殺者に怯え、自分を狙っているというウワサがないかと確認したその日に、暗殺された人もいるくらいだ。
 そういう意味で、
「ドッペルゲンガーというものを、まるで死神」
 という認識で見ていた人だっていたに違いない。
 マンガなどでコミカルに描かれる死神とは、まったく違った性質のものではないだろうか?
 ただ、ドッペルゲンガーと死神とは、
「切っても切り離せないものではないか?」
 と思うのだった。
「ドッペルゲンガーと死神」
 という発想から浮かんでくるものとして、前述の、
「カプグラ症候群」
 というものであった。
「自分のまわりが、皆敵に見えてくる」
 あるいは、
「敵だと思い込んでしまう」
 という発想が、一種の四面楚歌のような状態となり、
「自分のことを、全否定する人たち」
 しか、周りにいないような気がしてくるのだ。
 そうなると、
「死神の出番」
 なのかも知れない。
 そして、その死神というのは、どんな姿をしているというわけではない。あくまでも、
「得体の知れない未知の生物」
 を考えると、
「可変的な生物だ」
 ということになり、結局最後は、その姿かたちは、自分になってしまうのではないだろうか?
 だから、
「ドッペルゲンガー」
 の正体は、
「もう一人の自分」
 なのかも知れない。
 逆の方から、死神や、ドッペルゲンガーを見たとすると、どちらも結果として、
「行き着く先は、自分しかない」
 ということになるのだ。
「もう一人の自分」
 という発想を感じたのは、夢の中だった。
 というのも、
「夢を見た」
 という感覚が残り、その夢に毎回出てきているキャラクターが、
「もう一人の自分」
 なのである。
 元々、夢に出演している自分がいて、さらにその夢を客観的に見ている、
「もう一人の自分がいる」
 ということであったが、さらに、また自分がどこから見ているのかというと、
「まるで箱庭のような限られた世界の中にいる自分たちを見ている」
 というもので、最初は立体の箱庭のように見えていたにも関わらず、よく見てみると、「そこは、平面だった」
 という発想である。
 つまりは、
「3次元の自分が、平面である2次元を見ている」
 という発想で、子供の頃はそれが動かない本の中のように思えたが、大人になるにつれて、
「映像作品ではないか?」
 と感じるような世界に誘われているかのように思えるのだった。
 そんな世界の中において、
「2次元と思っていた世界が、実は3次元の我々の世界よりも、さらに複雑な線を持った多次元である」
 と考えると、
「夢の世界というのは、皆が漠然と感じているような四次元の世界、あるいは、さらにその世界に広がる宇宙ではないか」
 と思えるのだった。
「異次元」
 というものを考える時、
「四次元には、時間軸が加わる」
 と言われているが、ただそれだけのことではないような気がするのだった。
 ドッペルゲンガーというものに、時間軸が加わった、
「四次元の世界」
 という発想が繋がったとしよう。
 時間軸の盲点として考えられるものに、
「タイムパラドックス」
 というものがある。
 自分が、例えば過去に行って、その過去を変えてしまうと、未来が変わる。そうなると変わった未来では、自分が過去に行くということが不可能になるかも知れない。下手をすると、自分が存在していない可能性だってあるわけだ。
 だから、過去に行くことはない。すると、歴史は変わらない。自分は過去に来て、過去を変えてしまう。
 というのが、いわゆる、
「タイムパラドックス」
 というものである。
 これは、循環する流れに、
「捻じれが生じる」
 ということであり、まるで、
「メビウスの輪」
 のようなものである。
 それを考えると、循環の際の矛盾をいかに解決するか? ということが、問題になってくるのだった。
 この解決法として浮上してきたのが、
「パラレルワールド」
 という考えだ。
「宇宙には、並行して進んでいる、もう一つの空間が存在し、過去に帰って歴史を変えるというのは、パラレルワールドを変えるだけなので、いくら未来を変えても、それが、こちらの世界に影響を及ぼすことはない」
 という、実に都合のいい考え方の世界であった。
「世界がもう一つ存在する」
作品名:悪い菌 作家名:森本晃次