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悪い菌

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 本当に意識していなかったといってもいいのだが、そのせいで、友達に対して、何やらいやらしさを感じるようになっていた。
「何で、わざわざ、彼氏だって、私に紹介する必要があるのよ?」
 と感じるのだ。
 それは、あたかも、
「自分には、彼氏がいて、いないあなたから見れば、羨ましいでしょう?」
 と言わんばかりであり、マウントでも取りたいと思っているのであろうか?
 と、感じさせられるのだった。
「マウントを取りたがる人は若干数いる」
 ということと、
「マウントを取ろうとする方法にも、いくつかのパターンがある」
 ということが、分かってきたのだ。
 その友達は、彼氏を紹介してきてからというもの、何度も何度も、
「手を変え品を変え、マウントを取ろうとしている」
 と感じられるようになっていたのだった。
 一つ一つ、ここで列記するつもりはない。そんな細かいところまで覚えているはずもなく、それだけ昔のことを、まともに覚えているわけではないということだ。
 これが夢の中であれば、その頃に戻った気分で味わうことができるのだろうが、起きている時に思い出すのは、ハッキリとした記憶ではあるが、本当に思い出したいと思うことだけしか思い出せない。
 しかし、夢で見る場合は、自分にその選択権がないかのように思えるのだが、そうではなく、思い出したくないことであっても、思い出してしまうその感情は、自分の中の意識している部分を揺さぶっているかのように思えるのだった。
 それだけ、意識していることに忠実になれるのであれば、いいのだが、それでも、思い出すことに意味があると思うと、やはり、
「都合のいい記憶」
 というのが、夢の中のことであり、
「潜在意識のなせるわざ」
 という考え方をするのも、無理もないことに思えて仕方がないのだ。
 夢でも現実でも、マウントを取られるという行為は、
「嫌なものは嫌だ」
 と言えるのではないだろうか?
 そんな中、夢は、潜在意識という感覚があるため、夢の中で見てしまうと、
「都合よく解釈するんだろうな?」
 と夢を見ている自分は感じている・
 ただ、夢の中に、
「出演」
 している、
「主人公としての自分」
 は分かっていないのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、その時の友達に対して、実に嫌な気持ちを持っていたのは、否めない。
 友達にも、こちらの嫌だと感じている感覚は伝わるものなのだろう。お互いにぎこちなくなり、結局、友達関係はフェードアウト。どちらから嫌になったという感じではなく、お互いに気まずさから逃げるように、意識しなくなっていったといっても過言ではないだろう。
「別れ方としては、一番スムーズだった」
 と言えるかも知れない。
「別れ方にスムーズも何もない」
 と、一刀両断で考える人もいるが、別れ方を間違えると、次の出会いに対しての、枷になってしまうことだってあるだろう。
 また。ネガティブかも知れないが、
「次の出会いがうまくいかず、別れることになった時、またいろいろ考えてしまう時、一から考えなければいけなくなり、せっかくの経験が、生かされないというのは、腹立たしいことだといえるのではないだろうか?」
 そんなことを考えていると、
「出会いと別れを、これからいくつも経験していくことになるんだろうな?」
 と、漠然と考えてしまう。
 漠然と考えるというのは、
「考えてはいるのだが、まだ経験が浅いからか、どこか、他人事のように思えて仕方がない」
 と感じるからであった。
 本当は、
「そんなことはない。真剣に付き合っていける人だって、そのうちにきっとできるはずだ」
 と感じているのだが、それは友達というだけではなく。彼氏というものに対しても感じることだった。
 そして、
「友達であれば、出会いと別れを繰り返すことになっても仕方がないが、彼氏に関しては、別れなど考えたくもない」
 と思っていたのだ。
「失恋すると、ドラマやマンガのネタになるほどの、衝撃的なことを、自分が主人公として火中に身を投じなければいけない」
 と感じるのだった。
 当然、ドラマで俳優が演じる失恋シーンなどは、
「シナリオの効果と、俳優の演技力によって、かなり誇張されて描かれているに違いないんだろうな」
 と感じるが、まさにその通りである。
 どうしても、学生時代から、何かのシチュエーションを頭に思い描く時、ドラマであったり、映画の一場面を思い出すのは、無理もないことだと思っている。子供の頃から、マンガを見たり、ドラマやアニメなどの映像を見たりして育ってきたのだ。
「逆にそういうことをイメージするのは、当たり前だというわけではない」
 と考えると、無意識に意識しようとしている自分が、変わっっていると言われても仕方がないように思えてくるのだ。
 だが、そのおかげで、いろいろ頭の中で想像することが多くなった。
 その中でも意識しているのが、
「自分に対して、何やら、独り言を言っているかのように思えていた」
 ということであった。
 どんな独り言なのかというと、その時々で違うので一概には言えないのだが、気が付いた時は、
「自分に何かを言い聞かせているような気がした」
 という時が多かったような気がする。
 たまたま、そういう感情になった時、意識してしまうのか、四六時中独り言を言っていて、自分に言い聞かせているシーンは、実は毎度のことなのかというのが、疑問ではあるが、その時の感情を支配しているのが、
「自分に言い聞かせている」
 という行動であった。
「じゃあ、誰が言い行かせているのだろうか?」
 もちろん、自分自身だということは分かっている。
 しかし、夢の中で言い聞かせているという感覚は、一つではない。
 なぜなら、
「夢の中に出てくる自分は、一人ではないからだ」
 と思っているからであった。
 というのも、
「まずは、夢の中の主人公である自分」
「夢を全体的に、視聴者として見ている自分」
 と、少なくとも二人はいると思われる。
 視線は、あくまでも、視聴者としての自分なのだが、主人公は夢の中の自分ということなので、
「自分の意思というものが、どちらの自分に影響してきているのか?」
 ということが問題なのではないだろうか?
「夢の中にいる主人公である自分の目線で、夢を見ているわけではない。だが、夢を見ているという意識が、すべてではないのは、視聴者としての自分が、夢を見ているからなのであろう」
 と感じるのだ。
 そんな中で、友達との間での、
「自然消滅」
 と言える関係消化は、結果として導かれたのが、自然消滅であって、その過程において、自分が夢の中で、一つ一つの感覚を味わってきたからだと思う。
 それが、糧になり、人生の教訓となっているのではないかと思うと、
「夢というのも、ある意味必要なのではないか?」
 と感じるのだ。
 それが、
「客観的な目と主観的な目」
 を養うということであり、その感覚が、成長するにおいて、思春期に、
「夢には、この二つがある」
 ということに気付けるのではないかと感じるのだった。
 子供の頃に見た夢で、今でも忘れられない夢というのも、あったりする。
作品名:悪い菌 作家名:森本晃次