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つかさの頭の中

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 たぶん、夢の意識が残っているのは、そのつり橋にいることを、
「怖い」
 と、瞬時に感じたからであろう。
 実際に、そのつり橋の上にいる時、怖いと感じたのは、最初ではなかった。
 というのも、最初から、吊り橋の上にいるという意識がなかったからだったのだ。
 今までに、
「吊り橋を渡ったことはなかった」
 という意識があった。
 というのは、
「つり橋というのが怖い」
 という意識があったからで、
「誰が好き好んで、恐ろしいところを渡るというのか?」
 という考えからであった。
 それはそうだろう。渡らなければいいものであるなら、何も無理して渡る必要はない」
 というものである。
 それを無理に渡ろうとすると、その時は無事に渡れたとしても、精神的なショックから、
「トラウマになってしまう」
 と感じるのではないだろうか?
 特に、つかさという女の子は、自分でも、感受性が強いと思っていて、だからこそ、
「トラウマに陥りやすい」
 と思うのだった。
 いや、
「トラウマに陥りやすいから、感受性を強くしておかないといけない」
 という、心構えのようなものから来ているのではないか?
 と感じるようになっていたのだ。
 だから、最初から、吊り橋のような怖いところには、近づかないようにしていたはずだった。
 しかし、見えている吊り橋は、以前から知っていたような気がして、しかも、吊り橋を見ているうちに、いつの間にか、自分が吊り橋の真ん中あたりに移動しているのを感じたのだ。
 その場所から、下を見ると、明らかに足がすくんでいて、怖がっているのも分かるのだが、それも、まるでデジャブのごとく、
「以前に感じたことがあるような」
 という感覚だったのだ。
 ただ、少ししてから、そのデジャブの正体が分かった気がした。
「ああ、以前書いた小説の内容じゃないか?」
 というものであった。
 小説の内容は、いつものごとくの、
「完全オリジナル」
 であった。
 しかも、恐怖を煽るような作品で、本当であれば、自分が味わったことを書くべきなのであろうが、
「怖がりだ」
 という理由と、さらには、
「これこそ、オリジナル」
 という思いも重なって、怖いことでも書ける気がして書いたことがあった。
 ただ、完全に妄想だったので、妄想でも怖いものに立ち向かえるだけの勇気はない。だから、どこかで妥協したような小説になってしまったのだ。
 と考えていた。
 そう考えると、自分が夢で怯えている、
「怖い夢」
 というのは、本当の怖い夢ではないのではないかと思えたのであった。
 そう、自分が書きたいと思っている、
「完全オリジナル」
 という発想。
 これが、自分の中で、
「本当に恐怖だ」
 と思うようなことを描かせてくれないのだ。
 だから、中途半端な感覚が自分の中で、
「怖いと思っていることは、本当の恐怖ではない」
 という自覚があるのかも知れない。
 だから、それを暗示させるかのような夢として、
「マトリョシカ人形」
 のような、
「人形の中に人形を隠す」
 という発想で、それこそ、
「木を隠すなら森の中」
 という発想を植え付けるのではないだろうか?
 そう考えれば、
「怖がりであることが、オリジナリティを掻き立てて、そのオリジナリティへの掻き立てというものが、文章を書く、妄想するということへといざなっているのかも知れない」
 と言えるのではないだろうか?
 今の世の中において、なかなか、想像性のあるものを作り出すという発想を持っている人が多いように思えるが、実際に、
「それができる」
 という人は少ないだろう。
 なぜなら、想像性のあるものを作成していくには、それなりの、
「通らなければいけない壁」
 のようなものがある。
 その一番大切なものは、
「継続ではないだろうか?」
 どんなに書きたいものがあっても、それを書き上げるだけの気力が途中で失せてしまえば、何にもならない。そこまで書いたものが無駄になるのではないか。
 人によっては、
「途中まででも書いたのだから、それは価値がある」
 という考えの人もいるが、つかさはそうは思わない。
「作り上げるつもりで始めたものであれば、いくら99%できていたとしても、それは、まったくできていないのと同じだ」
 ということであった。
「オールオアナッシング」
 という言葉がある。
 つまりは、
「ゼロか100か、それ以外はないに等しい」
 という考えであるが、
「小説を書く」
 ということを考えるようになる前は、
「そんなことはない」
 と思っていたつかさだったが、今では逆である。
「書き始めたものは、最後まで書かなければ、いくら途中まで書けていたとしても、それは、ないに等しい」
 と思うようになった。
 なぜなら、
「今回の作品は、たまたまうまくいかなかっただけで、次回作では、バッチリ完成させるぞ」
 などと思っているとすれば、それは大きな間違いである。
 というのは、
「小説というものは、書き上げてなんぼだ」
 と言えるのではないだろうか?
 途中の過程というのは、正直関係ないのだ。完成させることで、作品としての価値も出るわけで、価値がなければ、成立もしない。
 それを考えると、
「小説の書き方」
 などというハウツー本には、必ず書かれていることであるが、
「小説を書けない人のほとんどは、途中であきらめるからだ」
 と書かれている。
 そして、
「どんな作品であっても、必ず、最後まで書き上げるという気力を持つことが大切だ」
 ということであった。
 というのは、富士山などの山でもそうなのだろうが、
「頂上に登らなければ分からない景色がある」
 ということである。
 いくら途中まで登ったとしても、最後まで登らないと、頂上からの景色は見えないということである。そもそも、山に登ろうとする人は、
「頂上からの景色を見る」
 ということを目指している人がほとんどだろうからである。
 よほどの理由がない限り、
「今日は、途中まで登ったから、これでよしとしようか?」
 と思わないだろう。
 なぜなら、途中まで一度上ったということで、次回は、そこから登れるわけではない。もう一度、麓からそこまで登って、そこからさらに頂上を目指すということになるのだ。
 つまりは、もう一度途中から登れるという時は、
「継続の途中」
 だということでなければ、登れるはずがない。
 要するに、何が大切かというと、
「継続」
 ということなのだ。
「継続は力なり」
 という言葉があるが、まさにその通り、最後まで登り切らなければ、結局は最初からということになり、そこまでせっかく作ったプロットも、途中まで書いた内容も、すべて、御破算となり、最初からなかったことになってしまうということである。

                 聖典による差別発想

「小説を書く」
 ということが、まず最初の難関として、
「最後まで書き切る」
 ということであり、
 そして、その次の難関は、
「継続させる」
 ということである。
 つかさは、リアルでは知らないが、人から聞いた話として、今から10年くらい前にあった、
作品名:つかさの頭の中 作家名:森本晃次