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つかさの頭の中

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 ということになっているからだった。
「永久的に誰にも犯すことのできない個人の人権は、いくら伝染病が蔓延しようとも、それを犯すことはできない」
 というものであった。
 もっと言えば、
「要請でしかないので、罰則もない。法律では裁けない」
 ということであった。
 後は、国民のモラルの問題というものが必要なのだが、実際に、
「世間の目」
 というものがあることで、国家の目標に、かなり近づいてはいた。
 しかし、この状態を、
「緊急事態宣言」
 と呼んだが、この宣言には、いろいろな問題があった。
 街中で、店が休業を行っていると、それを狙う、一種の、
「コソ泥」
「空き巣」
 の類が増えてきたのだった。
 さらに、
「要請を守らない」
 というところに対して、
「自粛警察」
 というものを名乗る一部の連中が、誹謗中傷などで、集中攻撃を負わせるというようなことまで発生した。
 それがいいことなのか悪いことなのか、その問題は大きかった。
 最初だけは、本当に行動制限を行い、見た目は、
「都市封鎖」
 のようであったが。二度目からは、どんどんその形が消えていき、途中からは、
「宣言が出ているのを知らなかった」
 というほど、世の中はまったく規制が掛かっていないというほどになっていたのだった。
 そんな時代に、社会は一変したのだが、今では、少しずつ元に戻りつつある。
 ただ、それがいいのか悪いのか正直分からない、なぜなら、
「政府が国民を見放して、経済を優先し始めた」
 ということからだった。
「日本は、アメリカの属国なのだから、しょうがない」
 と言っている人が昔から一定数いて、
「何をバカなことを言っているんだ」
 とほとんどの人が思っていたが、今では、
「ああ、本当にそうだよな」
 という人が、かなり増えてきている。
 それが、
「今のこの日本という国を象徴している」
 といってもいいのではないだろうか?
 そんな時代になってきて、思春期と呼ばれる時期を、そんな、
「まわりから抑圧された世界の中で過ごしてきた」
 という、つかさのような年齢の子供たちは、大人たちとは、まったく違った感性を持っているのかも知れない。
 学校において、
「皆で仲良くお勉強」
 というわけにはいかない。
「学校に行っても、閉鎖しているのだから、行くことはできない。友達と遊ぶどころか、会うこともできない」
 さらに、マスクやうがい、手洗いなどの徹底というのも、それだけであれば、予防ということで必要なことという意識を植え付けるのでいいのだろうが、そこに、
「自由の抑圧」
 なるものがあると、どうにも精神的に、追い詰められたということになるのだろう。
 特に、思春期という多感な時期、身体も、子供から大人への変革期に当たるというものだ。
 それを考えると、
「学校が機能していないということは、社会も機能していない」
 ということは、子供にも分かることであった。
 つかさという女の子は、結構、
「聞き分けのいい」
 という女の子であり、自分の中の理屈、そして、社会というものの成り立ちとを、自分自身で理解しているつもりだった。
「自分で理解している」
 というのは、
「そのつもりになっている」
 という考えであっても、自分の中でしっかりしたものを持っていれば、それは、決して、
「過剰」
 ということではなく、あくまでも、自分が考えていることを、自分の中で理解しているということを自覚しているのだから、
「大人顔負けの発想だ」
 といってもいいだろう。
 特に、つかさの場合は、自分のことを、
「誰よりも分かっている」
 と思っていて、それは他の人とは違い、さらに、
「誰よりも自分のことを分かっているということを分かっている」
 という感覚であった。
 それだけ、
「自信がある」
 ということなのかも知れない。
 普通の人はそこまでの感覚を持っていたとしても、ついつい、
「自信過剰になっていないだろうか?」
 と考えることで、少し控えめにしようと考えることだろう。
 だが、つかさは、そんなことはしない。
「自分の気持ちや考えを、表に出すことの何が悪いというのだろうか?」
 ということを考えているのだった。
 そんなつかさが、
「小説を書きたい」
 と考えたのは、
「正解だったのではないか?」
 と、つかさ自身は思うようになった。
 小説を書くことが好きなのは、
「オリジナリティなことが好きだ」
 ということと、
「自分の表現をしたい」
 ということが強かったからであるが、この二つは、
「似ていないようで似ている」
 と言えるし、
「似ているようで、思っているよりも、距離がある」
 と思えるのだった。
 その距離というものが、実に精神的に微妙な距離だから、どちらから見たとしても、その距離の曖昧さは、錯覚という範囲で理解できるものになっているのかも知れない。
 つかさにとって、
「オリジナリティというのは、自分を表現するための力となるものであり、逆にオリジナリティがなければ、それは表現ではない」
 と言えるのではないだろうか?
 つまり、逆も真なりということでもあり、
「自分を表現したいと思うのは、オリジナリティのあるものを作りたい」
 ということであり、結果として、
「自分を表現する」
 ということになるのであり、本当は、自分のオリジナリティを表現したい」
 ということの現れではないだろうか?
 つまり、最初から、自分を表現するということになるのであれば、そこには、自分で考えている、
「オリジナリティ」
 というものは存在しない。
 つかさが考えている、
「オリジナリティ」
 というものは、あくまでも、架空の物語であり、リアルではないのっであった。
 だから、
「自分をそのまま表現するというのは、リアルなことであり、自分が作り出したオリジナルではない」
 と思うのだった。
 それだけ、つかさは、
「自分を表現するために小説を書くのではなく、あくまでも、自分の中に潜在している才能を表に出したい」
 という気持ちで小説を書いているのだ。
 だから、
「自分を表現したい」
 という気持ちは多いにあるのだが、それによって、見えてくる、
「表現したい自分」
 というものが、虚空のものであり、
「まわりが見ている自分ではない」
 と感じるようになった。
 だから、つかさは、自分がまわりの人の中にいても、
「自分だけは違う」
 という気持ちになっているのだ。
 そこに、どのような感情が含まれているというのか、それを考えると、今度は、
「自分が、なぜオリジナリティを求めるのかということが、逆の見方から分かってきたのだった」
 と考えられるのだ。
「人との違いをオリジナリティと考え、まわりからも、そう思われたい」
 という気持ちが、つかさの今を作っているといってもいい。
 ただ、一人だとそのリスクも高い。絶えず、
「これでいいのか?」
 という不安にさいなまれているというのも事実で、自分でも、どうしていいのか分からないと思うこともあったりするのだ。
 そんな時に見た夢の中で、一つ気になったのが、
「つり橋の上にいる」
 という夢であった。
作品名:つかさの頭の中 作家名:森本晃次